Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2004年04月01日(木) 狭まる世界

僕の世界は今、確実に狭まっている。

と、ここまで書いたところで教授と助教授と、それから新しい技官の人がやってきた。前の技官の人は、ある日突然やめてしまったのだ。それからしばらく、その人あてに謎の電話がかかってきていた。今もって謎である。

教授から、その新しい技官の人の紹介を受けた。で、鍵の場所などの説明をして、しばらくあれこれ話した後、学長のお話とかいうことでどこかへ行ってしまった。で、僕は教授から、冷蔵庫の電源を確保して、それから掃除するようにと言われたので、しょうがないから冷蔵庫の掃除をしていた。

冷蔵庫の場所を変えてしまったので、前の場所から新しい場所へ、電源を移さなければならなかった。だから、床をこじ開けて移そうとしたのだが、なんと、床に穴が開けてあって、電源はその穴を通してあった。しかし、どう見てもコンセント部分がその穴を通るようには見えない。これは手品か?と思ったが、何の事はない。床のふちの部分の金具を外せばよかったのだ。写真を載せれば一目瞭然なのだが、僕のPHSにはカメラがついていないし、デジタルカメラは弟が、弟の彼女の家に置きっぱなしだ。かれこれ一ヶ月になる。いい加減回収してきてほしいものだ。

ということで、ドライバーを引っ張り出してきて、その金具を外して、コンセントを床下に入れて、また金具を取り付けて、床を元に戻した。そのまま床下を通して引っ張ればいけるかと思ったが、他のケーブルとこんがらがってしまってダメだった。仕方がないので、こんがらがった場所でまた床を開けて、ゆっくり引っ張っていった。これだから古い部屋は困る…。新しい部屋なら、こんな面倒なことをしなくても、どこからでも電源が取れるのに。まあ、言っても仕方のないことだ。

続いて、また冷蔵庫の近くの床を開けた。ここにはドライバーなどの道具箱が置いてあったので、それをずらした。さらにホワイトボードも置いていたので、それもずらした。道具箱は重い上に床の金具に引っかかってしまって、なかなか動かせなかった。電源タップを引っ張り出して床を閉めると、冷蔵庫のコンセントの先を床下におとしていることに気づいた。仕方がないので、また床を開けてコンセントの先を取り出した。そして、冷蔵庫と電子レンジのコンセントを電源タップにつないだ。

こうやって書いてみると、簡単なことでも文章で表現するのはとても難しいことが分かる。おそらく、この文章では、僕が何をしたのか半分以上伝わっていないに違いない。たった今したことを書いているに過ぎないにもかかわらず、だ。それに、ものの名前を知らないことに気づく。コンセントの先って言っているが、あの電源タップに挿す部分はなんて言うんだ?普段ならここでインターネットが登場するわけだが、今日は予告なしにネットワークが死んでいる。やれやれである。きっと、ネットワークが復活する頃には、こんなことは忘れているに違いない。

毎日毎日、この調子だ。ずっと研究室で過ごしている。他の研究室はいろいろあるようだが、少なくとも僕の場合、研究室に住み着くことになるだろう。ここで、最初に言ったことにたどり着く。すなわち、世界が狭まっていくのだ。世の中は広いのに、ずっとここで同じことをして過ごす。確かにそれも必要なことなのかもしれないが、少なくとも世の中の趨勢からは離れていくに違いない。それに、研究室にはかなり遅くまでいることになる。少なくとも、学部学生だった頃とは比べようもないだろう。

これは僕だけではない。社会人にも言えることだろう。本来、もっとも世の中の動きに敏感であるべき社会人が、自分の世界、あるいは自分の周辺の世界に閉じこもってしまうのだ。たとえば、世の中全体の動きに大きな影響を与えるものとして、テレビが挙げられる。テレビの影響力は大きい。テレビは本来、世の中の動きを映し出すものだろう。世の中のさまざまなものを、映像というきわめて具体的、かつ印象的な形で映し出す。だが、この具体性が逆に、テレビが世の中を移すのではなく、世の中がテレビによって動くということもあると思う。社会人になると、それだけ大きな力を持つテレビを、見る時間がなくなってくる。もちろんテレビ以外にも、世の動きを知る手段はあるだろう。しかし、いずれの手段にしろ、ある程度の時間を要するものだ。社会人にはその時間がない。

世の中の動きを作り出す中心になっている人物ほど、時間がなく、世の中の全体を見ることができないのではないか。これでは、望ましい方向へ進むことなどできないのではないか。不安に思う。まあ、他のみんながどうあっても、はっきり言ってどうでもいいことだ。問題は、これが僕自身にも当てはまるということだ。世の中全体の動きなんぞ、さしあたりはどうでもいい。しかし、僕自身がこれから先、どうすべきなのか、考えるための判断材料が、今の生活からは得られない。あまりに世の中と乖離しすぎていて、世の中にいろいろある世界からどう自分の道を選び取るべきなのか分からないのだ。少なくとも、3年生の頃まではこんなことはなかった。大学院など行かずに、このときに選んでおくべきだったのだ。


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