Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2004年02月12日(木) 余裕

卒論発表会は2月18日で今日が12日か。まだプレゼンテーションの資料どころか論文の修正も終わっていない。論文を修正しなければ、論文の発表資料など作れないと言うのに。やれやれ…。卒論が大変なのは当然のことだが、問題はやる気がまったく出ないことか。プログラムは言われて書いても構うことはないが、さすがに好きなことを書けない論文というのはどうかと思うなあ。僕の考えではなくて教官の考えを記しているものを、僕の名前で発表していいものなのだろうか。

こういう状況になってみると、なおさら余裕ってことを考えさせられる。やっぱり、評価される人間に共通することは、余裕があることではないかと思うのだ。同じことをやっても他の人よりも余裕があるからこそ、ほかの人には気づかないことができる。そして余裕があるからこそ、同じようにやっている人よりも一歩先へ進むことができるのだ。先を目指すにしても、人と並んで歩むにしても、常に余裕を持ちつづけることが大事ではないかと思う。自身のすべての力を一つのことに使ったとき、その他のあらゆることはどうなると言うのか。今の世の中は片付けなければならない問題が毎日山のようにある。社会生活をする以上は、最低限社会のマナーを守らねばならない。必死ではいけないのだ。

掲示板に「必死だな」と書かれることがよくある。その指摘が妥当かどうかはその時々だと思う。しかし、この言葉自体を考えたとき、批判としてはきわめて妥当な言葉だと思うのだ。つまり、「必死」であるということそのものが批判の対象となるということだ。必死にがんばるのは、本人は楽しいし、周りから見ていてもほほえましいと言うか、好ましいことではあるだろう。しかし、一つのことに必死になっていると言うことは、その他のすべてを投げ捨てているということにつながりかねない。もし周りのすべてを投げ捨てていないのなら、それは本当の意味で必死になっているのではない。どこかで自分を見つめる目を持ち続けているのだ。

自分がどれだけつらくても、どんなに苦しいときでも、自分の周辺の環境は消えたりしない。つらいから、苦しいからって、周りに迷惑をかけていいということにはならないのだ。だからこそ、余裕を持たねばならないのだ。どれほどつらくても、マナーは守るべきだし、人とのコミュニケーションをおざなりにすべきではないのだ。何をやるにも八分以下の力をもってすべきなのだ。


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