今日は研究室でのミーティングがあった。で、やはり卒論の修正を指示された。そもそも目的がずれてるってどうすべきなのか…。船長モデルのシミュレーションをするシミュレータを作ったわけだが、肝心の船長モデルは利用者が書くことになっている。いったいどう説明すればいいのか。
ところで、そのミーティングの中で社会人修士の先輩の研究についても話した。簡単に言えば、船ってものが体験できるようなゲームを作るって話だ。コンセプトとしてはおもしろいのだが、その内容として、教授とその先輩との間で完全な食い違いがあった。先輩は、どんなゲームにするか、ゲームの目的は何か、そのために必要なのは何か、問題点は何か、という考え方をしていた。まあ、正攻法だろう。一方教授は、そのゲームで何を体験させたいのか、ゲームに盛り込むべき要素は何かという点から考えていた。これだけだと食い違っていない。しかし、先輩はゲームの目的として船を使った貿易をして発展を図るとか、船だけでない要素を盛り込んで、ゲームとして魅力的なものを作りたいと言った。だが教授は、ゲームをさせることで船に対する啓蒙を図りたいと言った。つまり、そもそも研究の目的自体がずれているのだ。先輩はゲームを作りたいと言い、教授はゲームを使って啓蒙を図りたいと言っているのだ。先輩の最終的な目的はプレイヤーを楽しませることであり、教授の最終的な目的はプレイヤーに船の経験を与えることなのだ。完全に逆ではないが、先輩は利用者の視点から見ており、教授は開発者の視点から見ている。なかなかおもしろいことになった。結局のところ、研究室に所属して研究をする以上、教授の意向に従うのは至上命題だ。他の研究室では知らないが、少なくとも僕のところはそうだ。だから先輩の「利用者が楽しめるゲーム」を主題に据える考えかたは通らないだろう。ところが、ミーティングが終わったあとに先輩に聞くと、この点にはどうしてもこだわりたいのだそうだ。それはなぜか?理由はきわめて簡単。作っていて楽しくないからだ。教授の考えは、悪く言えば利用者に知識を押し付けるものだ。そもそも啓蒙というのはそういうニュアンスがある。 - 啓蒙
- 〔「蒙」は、知識不足の意〕 情報の寡少な一般人に必要な知識を与え、知的水準を高めること。
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
とまあ、ここまで書いたところで放置してしまっていた。このときに何を考えていたのかなんてもう覚えていないからこのまま載せてしまおう。
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