Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2004年01月28日(水) 本質と形式

人は、その才能を社会にうずめる。多くの場合、才能は認められることなく組織の論理の中に消え去っていく。人が多く集まれば力になることは確かだろう。だがその一方で、人が集まったとき、その力が加算されずに中途半端な増え方をするのも確かだろう。だから人は、その才能を秘して見せないか、あるいは別の場所で見せつける。それは人によってさまざまだろう。だが、それを垣間見る機会を得ると、その力の大きさに目もくらむ思いがする。世の中には、社交辞令も礼儀もなく、ただ本質のみを議論できる場所があるのだ。その議論で問題になるのは本質と表現だけだ。人格が問題になることなどない。ましてや人間関係など、その議論においてはもっともどうでもいいことだ。難しい問題を定型化し、片付ける能力に長けた人間は必ずいるのだ。彼らの感覚に慣れると自分の無力を実感する。だが、彼らのやり方を真似ることはできる。

ここで言っているのは匿名掲示板の話だ。だが、このような場はほかにいくらでもあることだろう。そして、このような場で用いられる議論は、ことごとく公式の場では使えない。一部は応用できるだろうが、多くの場合、本質を捉えているにもかかわらず、その形式のために一笑に付される。本当に本質的で、かつ建設的な議論は、社会生活の場では無理なのだ。自分の生活がかかり、人生がかかり、場合によっては家族がかかり、自分のプライドも面子もかかる。社会での議論はおよそ本質とかけ離れた要素が数多くかかわりすぎる。本質を議論する前にそのような問題を解決しなければならない。社会生活という大きな問題を解決する上では、生活も人生も、すべて重要な問題だ。だから、社会生活上における問題解決では、社会生活の問題を考慮した上で、自分のあたっている問題を解決しなければならない。取り組んでいる問題とは関係ない儀礼や形式、その他クリアしておくべき項目は多いのだ。社会生活に拘束された議論になど、建設的な解決を期待すべきではない。社会を守るために行われる議論は、究極的にそのすべては社会のための結論となる。議論においては、社会に反する結論、および過程は受け入れられないのだ。本当に建設的な議論は、このような制約のない環境で行われるべきなのだ。

難しい定義は「テンプレ」を用いる。情報交換にもその情報の定義として「テンプレ」を用いる。それが便利であることがすべてだ。用いる理由について述べる必要はない。用語も響きがすべてであり、分かりやすさにこだわったり日本語としての美しさにこだわることなどない。分からないのならば議論に参加しなければいいのだ。

それはそれとして、Sara鯖のチャット鯖、いいかげん直ったのかな…。


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