Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2003年04月29日(火) 望まない変化

2003.04.30 (Wed) 2:14:32

人は、いや、すべてのものは、例え望まなくても、変化を強いられる。その時間的な長さには違いがあるにせよ、いつかは変わらなければならない。

今回変わってしまったのは、家での生活。僕は元々、整理整頓というのがかなり嫌いだ。それほど苦手ではないのだが、とにかく嫌いなのだ。ものをきれいに整頓するというコトに価値を見いだせない。雑然としている方が落ち着く。きれいにしていると、それに手を出しにくいからだ。だいたい、使いたいものがすぐ使えない机など、机としての本来の機能を発揮していないと言っても過言ではない。

だが、単身赴任していた父の帰宅をきっかけにして、家の状況は一変することになった。整理整頓を強要され、嫌なら家を出て行けとまで言われたのだ。出ていけ、というのは酔っぱらいの戯言(たわごと)だと思いたいが、とにかく、それを強要されていることには違いない。で、1時間近くにわたってこのことを言われ続けた。多くの人に経験のあることだろうが、長い時間、自分の嫌いなことについての話をされるのはかなりの苦痛だ。僕も、相手が酔っぱらいであるにもかかわらず、相手…父につられて感情的になってしまった。まったく、愚かなことだ。父は僕にできない多くのことができて、社会人として、人間として、とても尊敬できる存在だ。だが酒を飲めばただの酔っぱらいと化すのは、人間である以上仕方がない。エタノールに脳を麻痺させる薬効がある以上、それを避けるには酒を飲まないようにするしかない。だが、現代社会は飲酒を強要される社会だ。従って、酒を飲まないようにすることを考えるのは現実的でない。昔は絶対に飲みたくないと思っていたし、主張していたのだが、この当然の主張が受け入れられないのが今の社会であることを、最近になって知った。酒の毒性については多く議論されているし、このような異常な社会慣習によって命を落とした者も少なくないことから、いずれ、この悪習は消え去ると僕は信じている。未来は過去よりも良いと信じていたい。楽観主義的だが、悪いことではないのではないだろうか。

話がそれたが、どんなに尊敬できる人間でも、酒を飲んだ時点で酔っぱらいだ。…彼女はそれでもかわいいと思ったが、これは僕の感情的な判断であって、冷静に見ればやはり酔っていることは疑いようがない。とにかく、酔っぱらいと化した父にそう通告された以上、僕には従う義務が生じる。忘れかけていたが、所詮僕は子どもなのだ。結局のところ、親の意志に反しては生活できない。親の意志に反して生活したければ、親の影響範囲から離れなければならない。僕はここにいる以上、親の操り人形に過ぎない。今、自由に動けるのは、単に親が操り人形の糸をゆるめているに過ぎないのだ。一度強く引かれれば、僕の意志などなんの役にも立たない。そうなれば僕に残された選択肢は二つ。糸に引かれるままに踊り狂うか、自分で糸を切り離し、未知の世界へ飛び出すか。本来ならば糸を切り離すべきなのだろう。だが現状で、それができるかと言えば、否だ。21歳の特にこれを言った価値のないただの子どもが生活できるほど、今の世の中は甘くない。だからこうも言える。僕は親の操り人形であると同時に、社会全体の操り人形でもある、と。もしかしたら、今あるすべてを捨て去れば、新しい生活を築けるのかもしれない。しかし、それではその先はどうなる?捨ててしまえば、もう二度と手に入らないものばかりなのだ。そのときに新しい生活を築けたとしても、それで未来永劫過ごせる保証はどこにもない。ましてや、幸せな生活など。もちろん、自由に価値を見いだし、いかなる束縛からも離れていることが自分の幸せだと信じる人ならば別だ。だが僕は、そんなことに価値など感じない。最低限の自由ならともかく、あらゆる義務から解放される代わりに、あらゆる権利も失う自由などまっぴらだ。あらゆる権利。たとえば、生存権も含む。ホームレスを考えれば分かりやすい。中学生に殺されたりしているではないか。彼らの生存権を保証するのは、もはや警察しかいない。その他のあらゆる社会システムは、彼らの生存権を保証する方向に働いていないのだ。

親の操り人形であることは仕方あるまい。その代わりに、僕は安全な環境だけでなく、数え切れないほどの様々なものを得ている。それは、もちろん具体的な「モノ」も含む。PCもそうだし、食べ物、衣類、PHS、などだ。ちなみに、目の前にあるものを適当に並べただけで、それぞれのものにはあまり意味はない。最低限の制約で最大のものを得ていると言っても過言ではない。だからこれは仕方がないどころか、僕にとって極めて有利な状況だ。だが、その親が酔っているとなると、話は一変する。あらゆる理性的な判断は失われ、僕が操り人形であるという事実がクローズアップされる。本来親には、僕を操り人形として操ったところで、それほどの利点はない。自分が親になっていない以上、なぜ親が子を育てるかという問題は難しいが、簡単に言えば自己満足だろう。自分が何をしても得られない満足感を、子に期待する。このときに、子を自分の思い通りに動かすことが、この目的、満足感を得ることにつながるかと言えば、必ずしもそうとは言えない。むしろ、失敗に終わる可能性が高いだろう。特に、僕はもう大学生になっており、操ると言ってもその動きは硬直化し、多くの可能性はすでに失われている。なのに僕を操ろうとするとすれば、それは、感情的な問題が原因としか考えられない。つまり、これと言った利点がないにも関わらず、現状の僕が気に入らないから、自分の気に入るように操ろうとするのだ。そしてこのような過ちは、僕の知っている本来の両親であれば決してすることのないものだ。酒によって脳機能が低下することによって、このような事態が起こりうる。これは酒によるものだから一時的なものだが、それでも僕の立場を考えると、この問題が引き起こす結果はあまりに重い可能性がある。結果として今の環境を失いかねないのだ。

ここで僕はどうすべきか。相手は理性を失い、感情的な判断によって動いていることが重要だ。本来であれば相手は両親であり、一般的な法則になぞらえて対応すべき存在ではない。だが、何度も述べるように、誰であろうと酔ってしまえばただの酔っぱらいに過ぎないのだから、それ相応の対応をすればよいと、僕は考える。

まず第一に、冷静であること。感情的になる相手に対して、自分も感情的になるのは愚の骨頂だ。あらゆる感情的な意見は、その聞くべき点のみを考え、残る感情的な部分は排除して考えなければならない。「うっとうしいから片づけてくれ」と言われたら、うっとうしいという点は排除して良い。片づける必要性があるかどうかだけを考えるべきなのだ。

第二に、議論をしないこと。酔っぱらいに話を聞いてもらおうだなんて、考えるだけ無駄だ。聞いているように見えるかもしれないが、実はまったく聞いていない。酔っぱらいとの話が堂々巡りになるのは、同じ意見をどれほど主張しても、相手がそれを記憶していないことが原因と考えられる。酔っぱらいとの議論がその後に大きな影響を与えるとは考えにくい。酔っぱらいとの議論で敗北したとしても、相手がそれを明確に記憶している可能性は低いからだ。

以上の二点より、僕の取るべき行動は、以下のようであるべきだった。まず、相手の話を冷静に聞き、聞くべき点のみを選び出す。極めて感情的な意見の中から聞くべき点を選ぶのは難しいが、残るものは少ないはずだ。短い話の中に聞くべき点を多く入れるのは、冷静な人間でも難しい。酔っぱらいがこのような芸当をしてくるなど、排除して考えて良いだろう。そして、聞くべき点のみを聞いたら、残りの意見は受け流し、ただ相手の意見に同意のみを示す。もちろん、同意を示したからと言って、実際に同意する必要はない。反論があっても反論するなということだ。酔っぱらいへの反論ほど無意味なものがないのは、上に述べたとおりだ。

だが、実際はこうでなかった。僕の最大の失敗は、相手が酔っぱらいだということに気づくまで1時間ほどもかかってしまったことだ。それまで僕は、相手を父だと思い、相手の意見を受け容れた上で反論をした。だが、無駄なのだ。ようやくそれに気づいた僕は、なんとか気持ちを立て直し、聞くべき点を考え、それ以外は受け流した。だが、1時間もの議論で僕もすっかり感情的になってしまい、十分に冷静な判断ができず、その気持ちを立て直すのに30分以上の時間を要した。

平たくいえば、酔っぱらいとけんかしてカッカしていたのだ。自分で言うのもなんだが、僕は相当なバカだ…。

酔っぱらいへの対応など、冷笑で十分だ。この不毛な議論の唯一の成果は、これだ…。まあ、次からは十分に注意すべきだろう。僕は暇な人間だが、それでも、酔っぱらいとの議論で時間を費やすほどではないからだ。感情的な議論など、すべて受け入れてやれば相手は満足するだろう。もっと言えば、「はいはい」と言っておけばいいのだ。ちなみにこれは、救急隊の人が使っていた技術でもある。相手がなにを言おうと、「うんうん、そうだね。」と受け入れてやるのだ。感情的な反駁など無意味だ。残念ながら僕は、そうだと分かっていても、このような実際の経験を伴わないと、なかなか自分自身の行動に反映できない。情けないことだ。

題名と関係ない話が大半を占めたが…。まあ、このような理由で、僕の生活は変化を強いられたわけだ。まったく、困ったことだ。とにかく酔っぱらいとの議論はしないこと。これが今日の教訓だ。

2003.04.30 (Wed) 3:12:21


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