2003.06.29 (Sun) 15:55:38
さて、ずっと空白になっていたここら辺の日記も、ついに片づく。最後は何を書くべきだろうか。
過去の日記を少し読んでいた。その中で気になった記述があったのでこの点について。
機械的自然観という言葉をご存じだろうか。少なくとも、日本ではわりと一般的な考え方だ。だが、この考え方、登場したのは確か17世紀くらいだ。結構最近なのだ。
簡単に言えば、自然は機械だという考え方だ。あらゆるものには法則があり、条件さえ整えば、すべての挙動は必ず同じになる。当たり前だと思うのではないだろうか。
しかし、この考え方は、300年ほど前までは存在しなかったのだ。では、どう考えられていたのか。
すべてには目的がある。人間には存在意義があり、その他のものにも、すべて目的がある。たとえば、野菜は人間やその他の動物に食べられるために存在し、その他の生物は生物連鎖を構成するために存在する、だとかまあ、そういうようなことだ。
これは、神の存在がその根底にある。すべては神が作ったのだから、神は何らかの目的を持ってこの宇宙を作ったに違いないと言うのだ。そして、その目的を追求するのが人間の役目だと考えられていたらしい。
機械的自然観は、少し大げさにいえば、人類を…少なくともその自然観を信じる人々を、絶望のどん底にたたき落とした。すべては特定の法則に従って動く。そこに目的などはない。ただ、そういう世の中があるだけだ。では、何のために人類は存在するのか?この自然観は、そこに答えを示さない。人間は単なる有機物の塊であり、存在意義などそもそもないのだと。
ああ、やっぱりだいぶ昔に聞いた話だから、ずいぶん忘れている。
でもとにかく、それは悟るべきではないだろうか。人間にはそもそも価値なんてないのだ。だから、価値を見いださなければならない。自分の自己規範の中で許される手段で、何とか自分の価値を確認する。それができなければ、生きる目的も何もあったものではない気がする。
ああ、やっぱりこういう話は、感情的にならないと書きづらいな。ただでさえ今日はたくさん書いていて疲れているのに。
もういいか。どうせこんな日付の日記なんて、そんなたくさんの人が読むわけではないだろう。
2003.06.29 (Sun) 16:24:05