Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2003年01月26日(日) 空虚な意味論

2003.01.27 (Mon) 2:14 lines: 144
土曜日と同様、日曜日もやはり、書くことなど何もない。

そう言えば、テレビで虫歯の話をやっていた。
食事をすると口の中が一時的に酸性になるが、
そのうち中和されて中性に戻るらしい。
そして、この酸性の状態が続くと、虫歯になりやすくなるそうだ。

もしこれをそのまま考えるとすると、
確か牛乳は弱アルカリだったはずなので、
食後に牛乳を飲んでおけば、
虫歯の予防をできることになる。
…本当だろうか?
まあ、確かに、
僕はいつも食後に牛乳を飲んでいて、
虫歯は一本もないが。
ただ、これは相関関係であって、
因果関係かどうかは分からない。
たまたまそういう事実が二つあっただけで、
関係などないのかも知れない。

ついでに言えば、
僕は歯を磨くのに、相当時間をかける。
僕は昔、ずいぶんと几帳面だった。
いったい何が原因なのか、今はすっかりものぐさになってしまったが…。
まあ、とにかく、かつて几帳面だった名残で、
今でも歯磨きは相当律儀にやっている。
きっちり磨く場所の順番を決めて、磨き残した場所がないように
念入りに磨いているのだ。
歯磨きは2,3分で済ませてしまう人も多いが、
僕はどんなときでも5分以上かける。
測定したことなどないので、正確な所要時間は不明だが。

ヘッドホンで音楽を聴いているのだが、
やはり、この方が全体的に調子が良くなる。
いったいなぜだろう…?
習慣付いてしまったのだろうか?
あまり長い時間ヘッドホンを使っていると、
頭が重く感じたり、いろいろと疲労を感じるのだが…。
それでも、利点は多いような気がする。

最近、ゲームのやりすぎで
なんだか価値観がずれてきた感じがする。
現実の世界にリアリティを感じなくなったと言ってもいいかも知れない。
かと言って、ゲームの世界にリアリティを感じているわけでもない。
自分の居場所が分からない。
そんな感じがする。
結構深く悩んで、自分の居場所はどこだろうと真剣に考える人がいるが、
そういうことではなく、単に感覚がないのだ。
何となくしっくりこない。ピンとこない。そんな感じだ。

何かあるたびにいろいろ考えるわけだが、
それがすべて、何の意味もないような気がする。
僕が何か考えたからって、どうなるものでもないのだ。
他に誰か、もっと深く考えている人がいるはずだし、
考えただけで、外に表さなければそれは意味をなさない。

世の中にはいろいろな人がいる。
そんな人たちに会うたびに、考えてみるわけだ。
その考えには一理ある。しかし、それは自己満足に過ぎないのではないか?
とまあ、こんな感じだ。
ここで問いたくなるわけだ。だからどうした、と。
世の中にはいろいろと問題はあるが、
それについていろいろ考えたところで、なんにもならないのではないか。
何かをすることに意味なんてあるのだろうか。

結局、楽しければいい、ということなのだろうか。
今のところ、僕が人生の意味として見いだしたことは、
これだけしかない。
人間は幸せになるために生きていると。
幸せとは何かと言えば、それは楽しいことだと。
これ以上のことは、今の僕には分からない。

楽しいと言ったって、それは単に、
脳内で快楽物質が分泌されているに過ぎない。
別に楽しめるような状況でなくても、
快楽物質さえ分泌されていれば、それで楽しいと感じるのだ。
それが本当に幸せと言えるのだろうか?
今の僕の考え方では、これで幸せだということになってしまう。

苦しい思いをしてまで、
何かを成し遂げることに意味などあるのだろうか。
それで本当に幸せだと感じられるのだろうか。
それでほんの一時の幸せを得て、人間は満足できるのだろうか。
過去の栄光にすがって、いつまでも過去を振り返る人間は見苦しい。
それでも、幸せだと言えるのだろうか。

僕は、物事に対してすべての力を振り絞って当たったことがない。
常に懐疑が先に立ち、とてもやる気になれないのだ。
逃げていると言われれば、その通りだ。
これをやったところで何になるのかと考えると、
とても全力で対処する気になどなれやしない。

ああ、眠い。ボーっとする。
こんな状況では、物事など考えられないのだろう。
その方が、感情的な文章を書けて、いいのかも知れない。
最近は特に、想いをストレートに表現することが重宝されているような気がする。
理論は概ね正しい場合が多いが、それだけに面白味に欠ける。
確実なものだけを選び取っていった結果、意外性に欠けるのだ。
前提を考えない考察など意味はないはずなのだが、
それでも、考察そのものに意味があると考える人は多い。
つまり、それによって何かを生み出すのではなく、
考えることそれ自体に意味があると思っている人が多い気がするのだ。
確かに、無駄な思考や議論でも、それ自体が楽しいと思えることは多い。
ただまあ、無駄な思考は妄想であり、無駄な議論はただのおしゃべりだ。
その結果として、何かを生み出すことはないだろう。

いったい何が楽しいのだろう?
やはり人間は、考えることそれ自体に価値があると考える生物なのだろうか。
そうでなければ、思考することを忘れてしまう。
人間の最大の能力を、失ってしまいかねないのだろう。

きっと、文章の前後のつながりはないだろう。
書くたびに、どんどん自分が何を書いたか忘れてしまっている。
こんなに眠いと、もう何も記憶などできないだろう。

ネットゲームですら、人と人との関係を考えさせられる。
人との距離は、このような制約された環境下でも、
厳然と存在する。
制約されているから、なおさら難しいのかも知れない。
自分の見せたくない部分は見えないが、
相手との距離を把握するための手がかりも、ことごとく見えない。
相手の表情も見えない。
プラスの感情を表すのに躊躇はないが、
マイナスの感情はなかなか表に出てこない。
結果的に、プラスの感情だけが入り乱れる、異常な世界を形成しているのだ。
だが、掲示板などで、隠されたマイナスの感情が飛び交っている。
それを想像できない者は、…どうなるのだろう?
ゲームの世界で相手の不快感に気づかなかったからって、
何か問題でもあるのだろうか?
気づかない方が幸せなのかも知れない。
現実でもそうなのか?
不快感など、気づかない方が思い切った行動をとれるのかも知れない。
相手の反応を怖がってばかりでは、きっと何もできない。
相手が不快に思っているなんて、単なる気のせいではないのか?
心配のしすぎであって、もっと深く踏み込んでいけば、
新しい人間関係が築けるのではないか?
そう思う一方で、今の人間関係を崩すのは恐い。
僕がこの世界を、壊してしまうのが恐い。
きっと、みんなが恐れている。
だから、それぞれが身を引き合って、
誰も先へ行かない世界ができあがっているのだ。
先へ行ければ、それだけでその人の個性となり、
人はその人に対して好意を抱くだろう。
誰かが行かなければ、あらゆる物事は動かないのだ。
その人はそのことで、不安を抱くかも知れない。
誰だって、人の前に立って進むことには不安を抱く。
これでよいのか、間違ってはいないか、
例え正しくても、みんなが不満を抱きはしないか。
それでも、誰かが行かなければ、物事は動かないのだ。

また、思う。
物事が進むことに、意味なんてあるのか?
だからどうなるのだろう。
何もしなければ、幸せにはなれないのだろうか。

この日記に意味はあるのか。
書いていて楽しい。
今の僕には、それしかない…。
それで十分ではないのか?

2003.01.27 (Mon) 3:28


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