2002/09/24 12:45 ポストペット、見てみたが実にものすごい。 まさか、ポストペットがフル3Dになるとは。 時代の流れとは言え、驚くべきことだ。
今日は、これから大学に行こうと思う。 特に用はないのだが、暇なので…。 彼女が試験を受けていて、会えるかも知れない、 などということはない。 …たぶん。 でも、この時間から大学に行っても、もう彼女はいないかな…。 やっぱやめようか。(爆)
やっぱり、日記はWordで書いた方が良さそうだ。 Internet Explorerのインタフェースより性能がいいし、 フリーズしてもやり直せるし、 日記のバックアップが自分のハードディスクに残るし、 エンピツのサーバに負荷を与えずにすむし。 今までは、段落を書くごとに更新していたし…。 たぶん、全部書く前に読んでしまった人も多いだろう。
ちなみに、どうでもいいことだが、 フォントサイズ、いくつに設定しているだろうか。 Internet Explorerだと、HTMLの仕様で、 使えるフォントサイズはかなり限られてくるが、 それ以外の場合は、そうでもないはずだ。
このとき、Microsoftの標準は、 10.5ポイントになっている場合が多い。 しかし、普通の人が見たら、これは小さいと思うはずだ。 それでサイズを上げようとするわけだが、 だいたいの場合、その上は11、12、14、16…、となっている。 だが、僕が使ってみたところ、 どうもここに表示されない13や15の方が、いい気がしてならない。 ただし、MS UI GOTHICの場合だが。
2002/9/24 12:59
2002/09/25 2:16 Wordで日付を入力しようと、 自動で今日の日付が現れる。 便利だが、自動で入力する方法はないのだろうか。 教えてくれるだけで、結局自分の手で打つしかないのだろうか。 教えてくれるだけで十分と言えば十分だが。
相変わらず、PHSの位置情報サービスはおもしろい。 今日、家庭教師をしに行ったときも使ってしまった。 ただ、細かい誤差があるようで、 東京都にいたのに、神奈川県と表示された。 おそらく、PHSのアンテナの位置を表示しているのだろう。 しかし、それはそれとして、便利でおもしろい機能だ。 10円で地図もダウンロードできる。 auに、GPSケータイというのがある。 しかし、精度はそれよりも遥かに劣るとは言え、 PHSでも似たようなことができるわけだ。 iモードも使えるし、位置を示す地図も出せるわけだ。
ところで、昔と今とでは、人の成長の速度が違うと言う。 昔は、15歳までに元服し、20歳の頃には立派な大人として 社会に認められていたらしい。 確か、新聞で見たことだが…。 昔は、今の1.6倍のスピードで成長していたというのだ。 だから、逆算すれば、社会人が少年ジャンプを読んでいてもおかしくない、 という計算になるとか書いてあった。 …普通におもしろいと思うのだが。 書く人も、学者なら見もしないで悪いと決めつけない方がいいと思う。 感情的にではなく、論理的、理性的に判断すべきだ。 それが、科学者というものだろう。
それで、その計算で行くと、 昔の15歳が今の24歳に相当し、昔の20歳が今の32歳に相当することになる。 確かに、昔の人の実績などを見ていると、それも頷ける。 多くの文豪が、偉大な実績を残し、三十代前半で自殺している。 しかし、それはすでに、現在の50歳に相当するわけだ。 この歳なら、それなりの実績を残せたっておかしくはない。
僕が思うに、 現代の人間と昔の人間がこれだけ違ってしまったのは、 現代の人間が劣っているということではないと思う。 そうではなく、要求される知識の量が増えたということではないだろうか。 19世紀の神学者は、神という究極の存在に迫るため、 たった1人ですべての科学を修めたそうだ。 これはこの時期の科学者に限ったことではない。 ルネッサンス時代には、科学だけでなく芸術においても 成果を残した人間がたくさんいる。
こんな芸当ができるのは、 彼らが天才だったということも挙げられるだろうが、 それ以上に、それまで人類が蓄積してきた知識の量が 少なかったということが言えるだろう。 現代は、知識の量そのものが増えただけではない。 論文として知識を蓄積する技術も格段に進歩した。 もはや、たった1人の人間がすべてを修められる量ではなくなってしまったのだ。 詳しい数字は知らないが、 100年前と比べて、本の数は何桁も増えていることだろう。
ここに、人類の限界が見える気がする。 人類は、過去に祖先が築き上げたものを継承して発展してきた。 しかし、祖先はあまりに多くのものを築きすぎた。 人間の能力では、それを継承しきれなくなってきてしまったのだ。 今は、一人がすべてを継承できないというだけで、 専門という形で割ってしまえば、理解できないことはない。 …それでも、自分の専門以外まったく分からないという 特異な科学者が大量発生しているようだが。
さらに進歩すれば、その傾向はますます強まるだろう。 新しい技術を生み出すために必要な既存の技術は 人類が進歩すればするだけ積み上げられていくのだ。 もちろん、教育の技術だって進歩するだろうし、 現に今も進歩を続けていると信じたい。 しかし、それにだって限界はある。 人間は、科学だけ学んでいればそれでいいというものではない。 人として知らねばならないことがあるはずだ。 常識はもちろん、常識を越えた思いやりや愛、友情など…。 科学の範疇を越えるような知識も、教養として必要となるだろう。 さらには、自分が所属する文化についても知らなければならない。 人類が過去にしてきたこと、特に過ちについて知らなければ、 自分たちもまた、同じ過ちを繰り返しかねない。
人間が過去の人間のしてきたことを継承し、 過去の過ちを繰り返さずに新しい道を築くためには、 これだけのことを知らなければならない。 もちろん、これ以外にも知らなくてはならないことは無数にあるだろう。 最近よく言われているが、 人間は地球に生まれた存在なのだから、 実際に命に触れるような体験をする必要だってある。
すでに、今の人間には欠落したものが多すぎる。 命に触れる経験をした経験をした人間なんてあまりに少ない。 他人の痛みを理解できる人間もあまりに少ない。 人間として当然備えているはずの感覚、「優しさ」ですら、 もてはやされるような時代なのだ。
もちろん、他人だけではない。 僕自身、欠落したものは多くある。 命の大切さなんて、感覚的にはまったく理解していない。 他人の痛みなんて、共有できたためしがない。 人の死の、なにが悲しいのかまったく分からない。 両親が死ぬと考えたって、生活が困るとは思うが、 それ以上の感慨なんて湧かない。 もちろん、これは現実味がないからかも知れないが。
それは、僕の人間関係に表れている。 誰かが苦しんでいるとき、困っているとき、 僕は、割と器用に慰めたり相談に乗ったりできると思っている。 もちろん、僕がそう思っているだけで、実際はどうなのか分かったものではないが。 少なくとも、決定的な失言は、中学生の頃以来、したことがないはずだ。
なぜなら、他人の苦境にたいして、 特別の感慨が湧かないからだ。 他人の苦しみを自分の苦しみとして感じられないから、 その苦痛をなかったことにして物事を考えられるのだ。
別に苦痛に限ったことではない。 あらゆる感情を理性的に取り扱っているから、 どんなときでも、だいたいうまく対処できる。 時々的はずれなこともするが、 それは瞬時の判断を誤っているだけだ。 こと感情的な問題に関しては、そのとき自分が取るべき行動を きっちり判断できるようになったのだ。
これは、今までの人間関係で築き上げてきた技術だ。 理性的な判断で感情を操っているから、比較的失敗が少ないわけだ。 そのとき取るべき行動、話すべき言葉を選べばいいのだ。 …彼女に対してはまったくどうしていいのか分からないが。 僕の乏しい人生経験では推し量れない人だ。
感覚的な善悪の判断、美醜の感覚、その他あらゆるものが、本物ではない。 少なくとも、中学生の頃はそんなもの、サッパリ分からなかった。 しかし、必要に迫られて、世の中の多くの人が良いと言うものを知るようになっていったのだ。 自分がどう思うかなんてどうでもいい。 世の多くがどう判断するか。それに、自分の判断をゆだねるのだ。 自分では、なにも分からないのだから。 物事から世の中が判断基準にしている事象を読みとり、 世の中の判断基準に従って判断する。 そこに、僕自身の意思が介在する余地なんてない。 いいものはいい、悪いものは悪い。 …たぶん、真理だろう。 しかし、僕自身には、その基準がまったく存在しないのだ。
まあ、世の中全体、特に日本人にこの傾向は見られる気がするが。 僕はこのように、他に判断基準をゆだねることに嫌悪感を持ってきたので、 それが表にはなかなか出ないようになっているはずだ。 しかし、世の中には、ブランドというだけでよいと判断したり、 医者がいいと言うからってあっさり詐欺に引っかかったりする人間が多く存在する。
あまり関連はないが、書きたかったことなので、 このまま砂糖の話に関連させようと思う。 砂糖は、身体に好影響を与える食物だ。 太るとかコレステロールが増えるとか、 果ては依存性があるということまで言われているようだが、 基本的に、砂糖固有のそのような薬効はない。 なぜなら、砂糖はただのスクロースであって、 分解されればグルコースとフルクトースになるだけの物質だからだ。
これらの物質は、人間のエネルギー源になる。 逆に言えば、それ以外に使われることなどない。 使おうにも、他の用途に使えるような性質を持ち合わせていないのだ。
好影響を与えると書いたのは、単にエネルギー源であるというだけの理由だ。 まあ、あえて言うならば、他のエネルギー源である ご飯やパン、うどんやそばなどの炭水化物と比較して、 構造が単純である分吸収が速いということか。
吸収が速いということは、早い血糖値の上昇を促す。 血糖値が上がれば、その分人間の身体はエネルギーを身体に取り込みやすくなる。 それだけ新陳代謝も活発になるし、影響は大きいというわけだ。 さらに、血糖値の上昇は食欲の低下を促す。 砂糖を食べると、すぐにお腹がいっぱいになるわけだ。 もちろん、エネルギーというのは過剰に摂れば脂肪として蓄えられるわけだから、 食べ過ぎれば太るのは当然だ。しかしそれは、砂糖に限った話ではなく、 カロリーを持ったあらゆる食物に共通することだ。
ついでに言うと、グルコースは、唯一の脳の栄養源だ。 なぜなのかは知らないが、脳は他のあらゆる物質をエネルギーとして使えない。 グルコースがない場合、人間の身体は、 グリコーゲンという肝臓に蓄えられた物質をバラして使っていく。 しかし、人間の身体は化学反応を瞬間的に行うようにはできていない。 酵素によって化学反応を促進するという手法のためだ。 だから、どうしても蓄えられたエネルギーだけでは欠乏する。 なるべくグルコースは摂取すべきであって、その手段として砂糖は適しているのだ。
なにが言いたいのかと言うと、 砂糖は今、多くの人に嫌われている。 しかし、その多くは誤解であり、判断を誤っているのだ。 だが、世の中の多くに同調するあまり、 極端に砂糖の摂取を抑制してしまう。 それは、食事情が良くなってきた現代で、 砂糖の消費量だけが減少しているという事実が証明している。
統計的に有意差が現れるほど、判断基準を他にゆだね、 誤った判断をしている人が多いのだ。
だが、これを実際に自分で判断するとなると、 これは極めて難しい問題となる。 当たり前のことだが、僕が書いたことが事実であるという証拠を、 僕は何一つ示していない。 統計などと書いてはいるが、 実際のその統計も、統計の出典も述べていないのだから 証拠とはなり得ない。
判断の問題に限ったことではない。 精神病質者、サイコパスと呼ばれる人たちをご存じだろうか? 彼らは、僕のレベルとは比べものにならないほど、 多くのものが欠落していると言われる。 どっかのマンガに「ヒトガタ」とかいうのが出てきたが、まさしくそれだ。
彼らは、例えば恐怖をまったく感じないなど、 かなり異質の存在だ。 あらゆる感情的な判断が、できない。 しかし、別に笑顔を作れないわけじゃないし、 泣こうと思えば泣くこともできる。 あらゆる感情表現を、その場に適した形でしてのけることができるのだ。 結果、サイコパスの多くは、 人間的な感情が欠落しているにもかかわらず、 極めて優れたコミュニケーション能力を有し、 大量殺人者であることを他に悟らせないほどの人格者として振る舞うことができる。
だから、結論として、僕の持論が表れるのだ。 感情的な判断は不要だと。
これで、一時的にしろ、上記の問題が解決する。 人間は、その人生の中で、 あまりに多くの時間を、感情的な判断力を養うために費やしている。 だが、それをすべて、科学を学ぶために費やせば、 人間は過去のあらゆる知識を継承し、先へ繋ぐことができるようになるだろう。 感情的な判断さえ排除すれば、 力ずくで相手を黙らせようとする戦争だって起きないだろう。 これも、1つの理想郷だ。
しかし、それが幸せなのかと問われれば、疑問だ。 幸せを感じる心すら失われているのだから、 人として、もっとも不幸なのかも知れない。 それだって、僕が今の考え方に毒されきっているから思うことなのかも知れない。 幸せを考えること、それ自体意味のないことなのかも知れない。 こんな定義のはっきりしない、 極めて曖昧なことを追求する意味などないのかも知れない。 快楽を示す麻薬物質さえ供給されていれば、それが幸せなのだろうか。
今の僕が思う幸せの姿は、結局のところそんなものだ。 自分の目標を達成する、護るべき家族の笑顔を見る、 友人と楽しく会話する、好きなことに全力で打ち込む。 このような幸福を示す事象のすべてが、 快楽物質の分泌を誘発する事象だろう。
どのような関数で人間が動作していようと、関係ないのかも知れない。 脳の内部でどう動作していようと、自分が幸せだと思えればそれでいいのだろうか。 脳の動作原理なんて、人が知ってはならないことだったのだろうか。
たぶん、こうやっていろいろ思索を巡らしている間、 僕は幸福なのだろう。 手が疲れて、多少右手の手首に違和感があり、 裸足の足が冷たいだけで、これと言った苦痛は感じない。 ヘッドホンから流れる音楽はよい印象を与えるし、 キーを叩く感触も決して悪くない。 なにより、考えていることをこうして記していくのはたまらなく楽しい。 誰かが読んでくれると思えばなおさらだ。 PCがフリーズして吹っ飛んでしまうかもという不安はあるが、 それ以外にこれと言った不安はない。 将来に不安はあるが、悲観するほどひどい環境にはいない。 国立大学にいるし、成績は比較的優秀な部類に入る。 問題なんて、なにもない…。
彼女の心を理解できないのは、なんだか嫌な気分だ。 悲しいというのも悔しいというのも、少し違う気がする。 すっきりしない気分と言えばいいだろうか。 なぜこれほどまでに彼女を意識するのかも、分からない。 でも、だからと言ってどうと言うこともない。
もうひとつ書きたかったことは、月の大きさだ。 今日、いろいろなものをデジカメで撮ってみた。 そのとき、最後に家庭教師先からの帰り道、月を撮ってみたのだ。 月は、夜空に大きく輝いていたはずだった。 しかし、デジカメに見える月は、あまりに小さかった。 原因は知っている。人間は、遠くのものほど大きく見る機構を持っているのだ。 遠くのものを、そのまま認識してしまっては十分に理解することができない。 そのため、何らかの方法で拡大しているのだ。 実際の月は、想像以上に小さかった。 それに驚いて、日記に書くことにしたのだ。 …その驚きを表現する術など持たないのに、 いったいなにを書きたかったのか自分でも分からないが。
やはり、今日は大学に行くべきだったか。 彼女に会えれば、それだけでも良かった…。 病気かな…。
2002/09/25 3:48
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