2002年03月05日(火) |
初夢と悪夢 / 熟練の技術 |
夢を見た。 僕と同じ境遇の3人の人たち。 いったいどういう経緯でそこに集うことになったのかは、夢の話なのだから、 知る術もない。 とにかく、向かい合って集う4人の人間。 共通するのは、癌で余命1年に満たないということ。 僕を含めて男が2人、女が2人。
夢でもやはり、他の人の気持ちは分からない。 しかし、僕はなんとも言えない無気力感に包まれて、 そのすべてを受け容れていた。 きっと、それが夢なんだと気づいていたんだと思う。
残りの2人は記憶にない。 でも、もう1人の人のことはある程度記憶に残っている。 その女性は、愁いを帯びた笑みで、なぜか掌を見つめていた。 皮膚癌だったのかも知れない。 僕は、家庭の医学で見た皮膚癌の写真が強く印象に残っているのだ。
細かい経緯は覚えてはいないが、 覚えているのは両親に報告に行こうと思ったこと。 自分のことより、このことを伝えたとき、 母がどういう反応を示すかが不安だった。 両親がどう思うか、などとは考えなかった気がする。 ただ、どういう反応を示すか…。
なぜか、小学校の運動会だった。 起きる直前だったこともあり、これは鮮明に記憶に残っている。 両親は無地のテントの下に、大勢の人と一緒にいた。 本来は自治会の名前が記されているあれだ。 しかし、僕の目には両親以外の人の姿は映らなかった。 競技は、行われていなかったと思う。
50メートル競走の場所が僕から見て横に確保されていて、 その50メートル走の走路の横にはフィールドが見えた。 もともとその小学校には、その50メートル競走の スタート地点から右手に体育館があるはずだが、 そのときの僕には見えなかった。 ちなみに、さらに卒業後に、新しい建物が増設されているが、 それも僕には見えなかった。 小学校の風景だったのだが、妙に白っぽくてきれいだった。 どこか違う場所だったのかも知れない。
僕は、隣にいる仲間と一緒に足を進めた。 仲間は、最初の3人のうちの誰かだったはずなのだが、 記憶に残っていない。 たぶん、掌を見ていた方ではない女性だと思う。 僕は彼女に一言言い残して、 50メートル走のラインを踏まないようにぐるっと回り込もうとした。 そのときの僕は、いったいどうやって両親に報告するか。 余命1年に満たないということ、どう切り出すか。 そんなことばかり考えていた気がする。 「冗談じゃないんだ。ちょっと聞いて欲しい。」 …ここから切り出そう、という結論に達したはずだ。 「あの、俺、癌になっちゃったらしいんだ。もう、1年保たないんだって。」 僕は平然とすべてを受け容れていた。 ただ、死は怖くないが、痛みは怖かった。 漠然と内臓のどこかが痛むような恐怖を考えていた。
そして、両親の元にたどり着く前に目が覚めた。 その小学校に行ったあたりから意識は鮮明だったと思う。 起きてすぐに思ったのは、この夢が現実かどうか。 夢の中で、これは夢だと冷静に判断できていたのに、 起きてしまうと夢と現実の区別が付かなくなった。 もう、ずっと前から癌だという気分になってしまっていたのだ。 思いこみで記憶は変わる。 記憶なんて、それほど曖昧で確かでないものだということだろう。 今でも、少し不安はある。 これは本当に夢なのか? 現実なのに、それを受け容れられなくて夢だと思いたいだけではないのか? しかし、その夢以外の記憶がないことは、僕を救ってくれる。 これは夢だ。医者に説明を受けた記憶も、 具体的な癌になった場所も、どんな記憶もないのだから…。 ただ、医者に説明は受けた気がする。もうほとんど記憶にないが。
目が覚めた直後はもう少し覚えていた。 しかし、夢と現実の区別が付かずにおののいていた間に、 前半のほとんどを忘れ去ってしまった。 必死にこぼれないように掌で救っていた記憶。 それが今まで書いたことだ。
しかし、今現在までずっと共通するのは一種の憂鬱感。 別にどうなってもいいや、という投げやりな気分だ。 だから同様もせずに今の自分を冷静に見つめることができた。 そして、僕はこういうけだるい気分が好きだ。 こうやってなるべく冷静に分析しながら日記を書いていたら、 今にももう、そんな気分は消えてしまいそうだが。
今日は起きてから少しゲームをやろうと考えていたのに、 もう30分も日記を書いている。 仕方がないから今日はあきらめることにしよう。
ちなみに、これが僕の初夢だ。 3月5日にもなって、しかも3時間半しか眠れないというときに、 なぜ夢を見たのだろう? たぶん、悪夢だから途中で目が覚めたのだ。 白い光は目が覚める前兆だろう。 起きるかどうか選択を迫られて、僕は悪夢であることと 今日、早くから仕事があることを考えて起きることを選択したのだ。きっと。 双でもなければ、たった3時間半で起きてしまうことの説明が付かない。
今、首をひねろうとしたら ゴキッという遠くで鳴るような音と共に痛みが走った。 なんの音だったのだろう?
起きた時間は5時57分。 3分経てば本来の起床時間である6時になっていたのだ。 というわけで、そのまま起きてしまった。 睡眠時間は足りなかったのに、 そのままもう一度寝よう、とは思わなかった。 たぶん、ここに記そうと考えたのだ。 その辺のことは夢と同じで、あまり記憶にない。
さて…。これ以上書いていると朝食をとる時間がなくなる。 もう6時50分だ。 7時10分には出ないと遅れてしまう。
で、帰宅後。 毎日日記を書く人は珍しくないかも知れないが、 一日に二度日記を書く男は珍しいだろう。 もともと、この「エンピツ」は女の人ばかりで男自体が珍しい…気がする。
同じ仕事を一週間も続けるとだいぶ慣れてくる。 初日は1台も終わらなかったのに、 今日は2人で作業して一日に19台のインストールを終えた。 一日のノルマは10台程度だから、 このペースで行くとかなり早く終わる。
ここで、1つ問題が生じる。 あまり早く終わると、給料はどうなるのか、という問題だ。 給料は、ノルマをクリアすることによって支払われるのではなく、 単純に働いた日数に対して支払われる。 もともと14日という契約になっているのだが、 このまま行くと、とても14日かかるとは思えない。 まだ7日目なのに、95台中66台が終わっているのだ。 初めのうち慣れなかったのに、それでもこれだけ終わっている。 おそらく、今週の終わり、10日目にはすべて終わるだろう。 となると、残りはいったい何をするのか? することがなくて、来なくていいということになりはしないか? …不安である。 自作パソコンを作ろうと思っているのだが、 この問題はその予算に直結しているのだ。 4日も早く終わってしまうと、単純計算で 36000円の減収となる。 36000円は、僕が言うまでもなく大金である。 CPUのランクがまったく違うものになってしまう。 36000円が大金でないと言う人もいるかも知れないが、 そういう人は豆腐の角に頭をぶつけて死ねばいいのだ。 金持ちは世のためにならない、…と思う。 ちなみにこれは、極めて一般的な金持ちに対するひがみであり、 それ以上の意味はない。
まあ、とにかくこの仕事にもだいぶ慣れてきた。 もはや何も考えなくても次の手順が頭に浮かぶ。 我ながら恐ろしく作業が速くなったと思う。 初めてやったときは、とてもすべて覚えられるとは思えなかった。 まあ、バッチプログラムを組めば自動で処理できるような内容なのだが。
帰りに、一緒に仕事をした人とパソコンのパーツを見に行った。 減収になったらどうなるか分からないが、 基本的にはパソコンを作るつもりなのだ。 だから、あらかじめ検討しておくことは、決してマイナスにはならないだろう。
コストパフォーマンス、というよりも、 とにかくローコストということを重視する僕の考え方から CPUはCeleronの1ギガヘルツにしようと決めた。 Duronはいまいち評判が良くない。 まあ、もう少し調査する必要があるが。 考える必要はなかろう。 昔の人は、「下手の考え休むに似たり」という名言を遺しているのだ。
グラフィックにこだわるつもりはまったくないので、 グラフィックボードは要らない。 サウンドボードも今の3000円のもので十分だ。 CD-Rは欲しいが、動けばそれでいい。 高速である必要はないだろう。
バイトをやって、少しは改善の兆しが見えてきたが、 それでもまだおかしい。 相変わらず、無気力、無関心、無感動だ。 刹那的な感情はあるが、そのときの状況に応じて出し入れしているに過ぎない。 …感情なんてそんなものか? 僕には、未だに全然分からない…。
やはり、前から思っていたことは真実なのだろうか? 苦痛がなければ喜びは存在し得ない。 痛みがあるから、痛みのないことを喜ぶことができるのだろうか。 これらは常にバランスが取れていて、 苦痛がなければ幸せは存在し得ないのだろうか? もし幸せなだけの人生があったとしたら、 それはただの錯覚なのだろうか? 他の人間の幸せを喰らうことによって得られる偽りの幸福なのだろうか?
苦痛といっても、 肉体的なダメージはともかく、精神的なものはすべてその人間の心次第だ。 つまり、僕のようにプラス思考で、 なにがあっても自分にいいように解釈している限り、 本当に心ふるえるような感覚を抱くことはできないのだろうか。 …まあいい。憧れは、自分から遠いものに対して抱くものだ。 そんな感覚は、きっと僕には縁がないだろう。
昨日は3時間しか寝ていない。 しかも悪夢なんて見てしまったせいで眠りが浅かった。 …ということで、コーヒーを飲んだ日は眠くならないのだが、 今日は眠い。10時だが、もう寝ることにする。
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