| 2006年09月20日(水) |
4人だけの「詩の夕べ」 |
今夜、千種「空色曲玉」で開かれた「詩の夕べ」に参加。参加者4名の小さな集いだったが、少人数には少人数ならではの良さがある。
「夏撃波って、いいヤツだったんだ」 ミンミンで伴奏をつけながら『嵐を呼ぶ男〜山本秀雄の場合〜』を朗読した時、その人はそう言った。「今までどんなヤツだったと思ってたんですか」と聞き返すと、「ヘンなヤツだと思ってた」と単刀直入に答えられた。その人とはたぶん10回以上はお会いしていると思うのだが・・・。一度ついたイメージはなかなか修正されるものではないらしい。確かに「ハイパー・ヘンなヤツ」という側面があることは認めよう。でも、単純に「ヘンなヤツ」ではないんだな、これが。まあ、今回はその人のなかで夏撃波の株が上がったわけだから、それでよしとしよう。だけど、ひとこと付け加えれば、詩を詠む人間はみんな十分に「ヘンなヤツ」だとも思う。
別の方からは、「夏撃波さんは、ちゃんとテーマを持って、朗読しているんですね」とも言われた。たしか『イムジン河』(フォーク・クルセダーズ)や『青空と小鳥と終身刑』(南正人)を演奏した後だったか。全くその通りで、私はいつもテーマとか何らかのメッセージを持って朗読の場に臨んでいるつもりだ。自作の詩にはまさにその人間性が投影されるものだが、他人の詩や曲であってもそれを選んだという時点で既に表現する者の人間性が映し出されるのだと思っている。 詩であれ、音楽であれ、演劇であれ、表現された瞬間にそこに観客という他者の存在を想定している。その他者に何かが伝わるために技術も必要となるが、それ以上に伝えるべき何らかのメッセージを持たなければならないと思う。そしてまた、表現が表現者の肉体を通して伝えられる場合、その表現者の存在のあり方自体が問われなければならないとも思う。
最後のほうで、私は自作の詩『棘はずっと刺さったまんまだ』を朗読。自作の詩のなかでも特に大事に思っている詩である。その内容は人それぞれに感じてもらえればいいのだが、作ったときには(5年くらい前)強い思い入れで一気に書き上げたものだった。 朗読しながら「これからも大切にしたい詩だ」とあらためて思った。そして、たとえ一編でもいいから、人の心に深く残る詩を書きたいとも思った。
詩の朗読に関わるようになって約4年になるが、率直に言ってその間あまりいい詩は書けていない。でも、それは他人の詩を聴いていても同様で、いい詩はそれほど多いわけではないと思う。まあ、私自身の好みの問題も多分に含まれるのだが。 「いい詩」だと思えば、率直に「いい詩」だとご本人に伝えたいとも思っている(私から「誉め殺し」にあった覚えのある方は、私のなかではポイントが高いんですよ)。「いい詩」と若干違うニュアンスで「面白い詩」というのがあるが、これも誉めていることに間違いはない。ただし、こちらはかなり幅がある。 余計なこともたくさん書いてしまったようだが、最後にひとこと。詩は簡単に始められるが、いい詩を書くのはさほど簡単ではない。だからといって、難しく考えることもない。以上。
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