夏撃波[暗黒武闘戦線・歌劇派]の独白

2006年03月28日(火) 事実とは何か〜二つの裁判から

  仙台市の北陵クリニック(閉鎖)で2000年、筋
 弛緩剤を混入した点滴を5人の患者に投与したと
 して1件の殺人と4人の殺人未遂の罪に問われた
 准看護師守大助被告(34)の控訴審判決公判で、仙
 台高裁田中亮一裁判長は22日、無期懲役とした
 一審仙台地裁判決を支持、守被告の控訴を棄却し
 た。弁護側は即日上告した。
  (2006年3月23日「中日新聞」朝刊より)
  田中裁判長は主文言い渡しを後回しにし、判決
 理由から朗読。守被告が大声で異議を唱えて裁判
 長から退廷を命じられたほか、執拗に弁論の再開
 を迫った弁護人4人や傍聴人の支援者らも次々と
 退廷させられるなど、異例の公判となった。
  (2006年3月23日「中日新聞」朝刊より)

 「冤罪」の可能性もささやかれる「北陵クリニック事件」。控訴審で弁護側は一審判決を「科学的裏付けがない」と批判して無罪を主張。また、守被告が逮捕直後にいったん自白したことについても「捜査官の誘導があった」と信用性に疑問を呈したが、弁護側主張は退けられた形だ。
 控訴審判決について、私は非常に違和感を覚える。守被告が罪を犯したか否かはわからない。けれども、田中裁判長のやり方にはまったく誠意が感じられないのだ。一人の人間を「有罪」とすれば、その人間の一生は言うまでもなく大きく左右されることになる。「有罪」と判断するに値するだけの「裏付け」は当然必要だ。しかし、控訴審において審理が十分になされたとは言い難い。「裁く」という行為は非常に重いし、大変恐ろしいことでもある。その自覚が田中裁判長にあったとは考えにくい。
 そもそも「事実関係を明らかにする」ということは気の遠くなるような作業である。「裁判の迅速化」も大切なことではある。だが、審理が尽くされないうちに「罪に問われた人間(無罪の可能性も大いにある人間)」の一生が大きく左右されるとしたら、そちらのほうが問題ではないだろうか。
 
 さて、もうひとつ裁判の話となるが、こちらは世界を震撼させた「オウム真理教事件」についてである。

  地下鉄サリンなど13の事件で起訴され、死刑
 判決を受け控訴していたオウム真理教(アーレフ
 に改称)の元代表麻原彰晃被告(51)=松本智津夫
 =について、東京高裁(須田賢裁判長)は27日
 「訴訟能力に問題はない。弁護人が控訴趣意書を
 提出しないのは正当化されない」として、麻原被
 告の控訴を棄却する決定をした。決定は控訴審判
 決とは異なり上告ができず、弁護団は同高裁に異
 議申し立てをする方針。最高裁への特別抗告の道
 も残されるが、争われるのは手続きの妥当性に限
 られるため認められる可能性は低く、一審死刑判
 決が確定する公算が大きくなった。
  (2006年3月28日「中日新聞」朝刊より)

 世間一般の「感情」としては「麻原=極悪人」、「麻原は当然死刑」ということになるのかもしれないが、それほど単純な問題ではないように思う。仮に麻原被告が「極悪人」だったとしても「裁判を受ける権利」は日本国憲法において保障されている。それと、「死刑」を「妥当」とするだけの「根拠」が必要なはずだ(もっとも、私は「死刑廃止論者」なのだが)。
 さきほどの繰り返しになるが、やはり審理を尽くすべきだ。
 あんな事件がどうして起きてしまったのか、そもそも麻原被告は「極悪人」なのだろうか。私のなかでわき起こる疑問は、どんどん膨れ上がっていく。それなのに何ひとつわからないまま、幕は下ろされようとしているみたいだ。

 事実はひとつなのに、「事実関係を明らかにすること」は非常に難しい。人間は「神の視点」から物事をみつめることはできない。曇りのない目でみつめることなどできないのだとも言える。だから「裁く」という行為は恐ろしい。「神をも恐れぬ行為」と言ってもいい。でも、人間社会を維持していくためには、時に裁かなくてはならないのだ。問題は、その覚悟が裁判官にあるかということ。それと、「一般市民」も決して無関係ではないということ(裁判官は「市民社会」を代表しているにすぎないとも言える)。
 そんなあれこれを考えさせられた二つの裁判に関する記事であった。


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