| 2003年09月14日(日) |
9.11そして9.17 |
2年前のニューヨークでの同時多発テロと、それに続く報復の連鎖。1年前の日朝首脳会談で北朝鮮側が公式に認めた日本人拉致の事実と、その後の過熱する北朝鮮報道。「正義」の名の下に公然と行われる<暴力>は、あまりに見苦しい。いいかげんに目を覚ませ、と言いたいよ。想像力の欠如、そのひとことに尽きると思うよ。 例えば、アメリカがアフガニスタンやイラクに対して行った攻撃によって、アフガンやイラクの罪なき民衆はどれほどの犠牲を強いられたか。「『大義』の前には多少の犠牲はやむを得ない」などと言う人々には、万が一にも自らがイラク民衆の立場と同じ状況に立ち至った時にそれとまったく同じ言葉が言えるのか、と問いたい。だいいちアメリカによるイラク侵攻には「大義」すらない。それなのに「北朝鮮の脅威」におびえ、闇雲に「アメリカ支持」を打ち出した日本政府は見苦しいし、その政府の姿勢を支持する日本国民というのもまったくもって醜悪だ。 でもね、まっとうな感覚を持った人もいるんだな。森達也氏(ドキュメンタリー映画『A』監督)は、その著書『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』のなかで、こんなことを言っている。
オウムの信者のほとんどが善良で穏やかで純粋であ るように、ナチスドイツもイラクのバース党幹部も北 朝鮮の特殊工作隊員たちも、きっと皆、同じように善 良で優しい人たちなのだと僕は確信しているというこ とだ。でもそんな人たちが組織を作ったとき、何かが 停止して何かが暴走する。その結果優しく穏やかなま まで彼らは限りなく残虐になれるのだ。でもこれは彼 らだけの問題じゃない。共同体に帰属しないことには 生きてゆけない人類が、宿命的に内在しているリスク なのだと思っている。つまり僕らにもそのリスクはあ るのです。
人間とは悲しいかな、本当に弱いものである。被害者にだって、加害者にだってなりうるのだ。むろん犯した罪は裁かれるべきものであろう。だが、加害者を断罪してすべてが解決するわけではない。人間は、善も悪も併せ持った存在である。もっと言えば、大なり小なり(その大小の違いが非常に大きな差であるとは思うが)その加害者性を発揮せずに生きられる人間など存在しないのではないか。問題を他人事とせずに、常に自分に立ち返って考えてみることが必要だと思うのだが・・・。
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