夏撃波[暗黒武闘戦線・歌劇派]の独白

2003年08月12日(火) 自分が自分であるために

 せっかくの5連休、どこかに遊びに行きたい気持ちもありながら、日頃の疲れがドッと出て、今日も自宅でウダウダ。
 でも、本を読んだよ。阪井由佳子『親子じゃないけど家族です〜私が始めたデイケアハウス』をイッキに読み、いま鷲田清一『老いの空白』の冒頭を読み始めている(厳密には、他にも何冊か並行して読み進めているが)。
 
 ひとの支えあいというものが介護というかたちでしか表象されないというのは、<老い>にとって不幸なことである。(中略)じぶんはお荷物、厄介者でしかないのではないか・・・と思いつめながら生きるというのは苦しいことである。が、この時代に、そういう思いにとらわれることなく老いえているひとが、はたしてどれくらいいるだろう。(中略)<老い>の場所はない、ほとんど空白になっているというのが、寂しいけれどいまの<老い>のかたちなのではないか。そういえば、「居場所」というものに、この時代、老人だけでなく若者もまた渇いている。(鷲田前掲書より引用)

 う〜ん、日頃私が感じていたことがそこに書かれていた。そうなのだ。<老い>が介護問題だけに矮小化されて語られてあることへの違和感。単にケアの対象としてしかとらえられていない高齢者に対する社会のまなざし。そこには、<老い>をいかに主体的に生きるべきかという視点が欠如している。「老人福祉」の名の下に行われていることのなかに違和感を覚えることも少なくない(老人を「子供扱い」しているとしか思えない場面はたくさんある)。まあ、私のフィールド(?)とも言うべき「障害者福祉」の現場においても同様のことは言えるのだが。

 阪井前掲書も共感しながら読んだ。富山の「デイケアハウスにぎやか」の代表でもある著者が、知り合いの身障者に「自立とは何か?」と質問したところ、「自分が自分であること」という答えが返ってきたという。だが、他人の手を借りながらも主体性を持って生きるということは現状かなりの困難を伴っているとも言える。
 例えば、「障害者施設」で生活する一人ひとりの障害者に対して、施設は本人の希望や意思とは関係なく「支援計画」なるものを決定する。障害者一人ひとりの思いに寄り添うことなく、逆に施設側の都合を押しつけるということも少なくないというのが現状だろう。もちろん、それでいいわけはない。けれども、この問題の根は実に深いのだ。意外と知られていないことだが、「福祉の現場」において<主体的に生きる>という視点は絶望的なまでに欠如していると言わざるを得ない。年をとろうが、障害があろうが、本人が自らの生き方を選び取っていくべきなのだ。そのことに対する自覚を持つことが「福祉」に携わる人間に最低限必要なことだと、私は思う。
 偉そうなことばかりは言えないけれど、少なくとも他人の痛みに対して常に想像力を働かせていきたい。それと、自分が決して譲れないという部分を大事にしたいとも思うのだ。


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夏撃波 [MAIL]