昨日、今日と、仕事絡みで大阪に出掛けていた。施設の一泊旅行で、いわくつきのUSJ(スティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソンらのそっくりさんによるパフォーマンスなどをやっていたが、お客は少なかった)、吉本のショー(新喜劇は時間がなくて観られなかった)などを見て歩いた。仕事で行く旅行と、プライベートで行くそれとは違うので、そこのところは誤解なきよう。何だかんだと気を遣うところは多い。まあ、それが仕事と言えば仕事なのだから致し方ないのだけれど。 名古屋に戻ってから余力があれば、B級遊撃隊の芝居を観に行こうとも思っていたが、疲れがたまっていたので諦めて帰宅した。
帰宅後、テレビで金曜ロードショーを観た。宮崎駿監督による映画『千と千尋の神隠し』だ。この映画は以前映画館で観てはいたが、今回あらためて観てさらに深い感動を味わった。宮崎映画の魅力については多くの人が語っているが、誰にも見やすく、それでいて薄っぺらでないテーマを含んでいる点が大きいと思う(現代文明批判が随所にちりばめられ、人間の生き方について考えさせられる)。 『千と千尋の神隠し』についてはいろいろと語りたいところだが、今日のところは一点にしぼりたいと思う。ストーリーを単純化して言えばこうだ。主人公・千尋はある日「神々が疲れを癒しに来る場所」に迷い込み、湯婆婆という魔女によって名前を奪われ、千と呼ばれるようになる。その彼女が自分の名前を取り戻すプロセスがこのドラマで描かれている。そして、ところどころで「自分の名前を大切にするんだよ」というセリフが聞かれる。その意味について私なりに感ずるところを綴ってみたい。 「自分の名前」は、ある意味で他者とを峻別する便宜的な「符号」にすぎないとも言える。だが、「名前」の持つ意味とはそればかりではなかった。この世に生を受け名を受けた人間が固有の名を持つその人と出会う瞬間、あるいはお互いの存在を確かめ合うために、お互いの名を呼び合わなければならなかった(例えば、「北朝鮮拉致被害者」本人と家族の再会に際して)。そして、固有の名前には、固有の歴史がある。つまり、自らの名前は自らのルーツ(根)を示すものでもあったはずだ。 とすれば、自らの名を奪われるとはいかなることか、もはや言うまでもあるまい。かつて「大日本帝国」が朝鮮民族に対しておこなった「創氏改名」がどれほどの犯罪行為であるかということも。それから、日本におけるハンセン病差別の歴史(数多くの人が故郷を追われ、本名を抹消させられた)にも思いを馳せる。それらは単に過去の過ちなどではなく、現在も未解決の問題なのだ。 一人ひとりの人間につけられた「固有名詞」たる名前は、他の何ものにも代えがたい存在の尊さを教えてくれているのかもしれない。
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