夏撃波[暗黒武闘戦線・歌劇派]の独白

2002年09月22日(日) <死ぬこと>と<殺されること>は明確に違う

 17日の日朝首脳会談において北朝鮮側から明らかにされた「拉致」の「事実」を前に、日本じゅうが大きな衝撃を受けた。テレビ等の報道によって伝えられた「拉致被害者家族」の悲痛な面持ちは、それを見ている私たちの心をも重く沈ませ、北朝鮮という国家への不信を一層かき立てることとなった。
 私は、日朝両国民が和解し、隣国としてよい関係を築いていくことを、何よりも望んでいる。だが、その前提として、両国間にある不信の原因を取り除いていく必要がある。その一つとして、「拉致」の事実究明であり、北朝鮮にまつわる様々な疑惑の解明、そして場合によっては謝罪と補償が求められよう。ここで注意すべきは、北朝鮮を「ならず者国家」呼ばわりしている側(日本、そしてアメリカ)には果たして何の問題もないのかという点である。見方によっては、日本やアメリカの側こそ「ならず者国家」とも言えるのだ(この点については、歴史的事実をよく検証しておく必要があろう)。

 結果として北朝鮮側が「拉致」の「事実」を認めざるを得ないところまで追い詰められたということであろう。しかし、同時に北朝鮮側が事実として発表したことは、日本国民に新たな不信をもたらすこととなった。
 「拉致」についての証拠隠滅がはかられた、死んだとされる人は北朝鮮当局によって殺されたのではないか、との疑念はいっこうに晴れない。
 ここで私は、「死ぬことと殺されることは明確に違う」という言葉を思い出す。薬害エイズ被害者の川田龍平さんが、ある雑誌での対談のなかで発言した言葉だ。
死亡か生存かの事実はどうあれ、少なくとも比喩的には、「拉致被害者」は連れ去られた時点でまさに殺されようとしたことに間違いはないのだ。そして、そのことと、かつて大日本帝国が朝鮮半島の人々に対しておこなった数々の犯罪的行為とは通底するものではなかっただろうか。

 誰の上にも、死はやってくる。だが、<死ぬこと>と<殺されること>とは明確に違う。人は、自らの人生を全うすることをこそ求められているのだ。自らが殺されようとした時には(社会的に抹殺されようとした場合にも)、それに抵抗すべきなのだ。その抵抗こそが、生きる証でもある。
 そして、闘いの末には、この上なき人生の歓びがもたらされるであろうことを信じてやまない。


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夏撃波 [MAIL]