| 2002年06月18日(火) |
ライフワークについて |
昨日は外泊した。決して色恋沙汰ではないんだな、これが。チャレンジド(「障害者」)のグループホームに泊まり込んでの「援助活動」(この言葉に私は多少の抵抗感を覚えるのだが)である。と言っても、私が到着する頃には、食事作りのボランティアさんによって夕食は用意されている。ごはん食べてお風呂入って、あとは時々必要に応じて声かけするくらい。普通であれば気を遣うことも多いのだろうが、入居者にせよ「世話人」にせよ、私には顔なじみの人ばかり。それなりに気は遣うが、自分なりに無理のないスタンスがとれていると思う。 昨晩は、入居者のひとりが私に紅茶を入れてくれた(いつもは食後にコーヒーを入れて飲む彼女だが、私がコーヒーが飲めないことを承知していた)。彼女は自分が飲みたくて、ついでに私にも紅茶を入れたわけではあるのだが、そうした行為を通じて他人とのコミュニケーションを楽しみたいといった欲求もあるようだ。 仕事場から解放されて「生活の場」に戻った時、誰もがそこに求めるのは「ホッとできる雰囲気」に他ならない。「社会的な装飾」を解いて「すっぴんの自分」が許される場所。そんな場所があればこそ、日々の仕事に出掛けることができるのだと思う(いくら報酬があっても、仕事はやはりつらいからね)。そんなことを思いながら、私はできるだけ入居者一人ひとりの話に耳を傾けようとするわけだ。自分にできる範囲のなかでそうしているにすぎないのだが。 それと、私のこだわりのひとつ。「健常者ー障害者」の関係を「援助者ー被援助者」の関係だけに短絡化させたくはないと思っている(「施設」においては、「健常者たる職員=援助者」に対する「障害者たる利用者=被援助者」という一方通行的な関係があてはまる)。チャレンジド(「障害者」)は常に「援助される対象」であるわけではないのだ。チャレンジドが援助する側にまわっても不思議ではないはずだ。実際に私自身が、何度もチャレンジドに助けられている。チャレンジドをめぐる関係を本来の姿に(対等に)戻していくことこそが求められている。そこを踏み越えずして共生はありえないとも言える。
現在、私は「施設職員」として生計を立てている。「演劇」に取り組めるのも、サラリーをもらえる職場に勤めているからである。しかるに、つきつめていけば、現在の職場での仕事と自分のポリシーとの間にどこかズレを感じずにおれない。もちろん、サラリーをもらっているかぎり、それに見合った仕事をするつもりではある。でも、それだけで人生は終われないし、そんなんで過労死なんて絶対に嫌だ。たとえ報酬は得られずとも自らのライフワークのひとつと位置づけやっていきたい<仕事>がある。ひとつは「反・差別」「真の共生」にかかわる<仕事>であり、もうひとつは「表現」(もちろん演劇も含んでいる)にかかわる<仕事>である。 夢を実現するために、まだまだ私は生き続けなくてはいけない。
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