カタルシス
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2006年10月13日(金)  真実の行方 

最近週末になるとヒドく背中がこります
肩こりが背中全体に広がったような感じです
痛い・・・ 痛いんだよ! じっと座ってられないくらい痛いんだ!!orz

針とか灸とか整体とかマッサージとか モーレツに施したい気分です

寄る年波ってヤツですかね やっぱ(鬱)





家帰ってTVをつけたら「『ダ・ヴィンチ・コード』は嘘っぱちである」をテーマにしたような番組がやっていたので 他に見たいものもなかったし そのまま見続けていたら結構興味深い取材をしてて 基本的には面白く見ていたんですけども 何かにつけて『ダ・ヴィンチ・コード』『ダ・ヴィンチ・コード』としつこく繰り返すので若干ウンザリしました

『ダ・ヴィンチ・コード』の作者が「すべて真実を書いている」と言ったところで 本当にそれを鵜呑みにしている人間なんてそう多くないと思うんだけど どうなのかね?
この番組 色々調べて取材して 新事実や興味深い文献を発見・公表してて面白いなーと思ったのに あの「でっちあげです」とか「嘘なのです」みたいな注釈はマイナスの印象を受けたんですが

あのね 主張すんならすればいいのよ『ダ・ヴィンチ・コード』も然り TV番組も然り 持てる知識と裏付けと奇抜な仮説で世間の度肝を抜いてくれ どんな内容であれ よくできていれば面白いと人は思うと思うんだ ただし それが「事実」かどうかまでを決めつけるのはいかがなものかと
そんなもん その時代に生きて、その場に居合わせた人間でなきゃ解らないことだし 完全に当事者にしか知り得ないことや 意図的に曲げられた記録なんかも存在するわけで その中の真偽を判断するのが生身の人間である時点でまた 思い込みや間違いや悪意が発生してるかも解らないものでしょう?

私は歴史とか好きだし とんでもーな仮説や作り話も結構面白いと思って見てしまう人間なんだけれども ドキュメンタリーを「断言」口調でナビゲートする番組や資料は好きじゃないんだ 可能性が「0」じゃない限り 99%の確信がおける説でもそれは あくまで「かも知れない」仮説に過ぎないのだと 語る側には伝えて欲しい
与えられた情報を元に 何を信じて、何を信じないか それを決めるのは個人個人であるべきなんじゃないかと でなきゃただの潜在操作になっちゃうじゃんか

昨日見た番組は私に多くの情報を与えてくれたけれど 他の説を名指しで否定しつづけた姿勢にはどうにも好感がもてなかったよ せっかく良い仕事してんのに勿体ないなーと思った

歴史には年代が古ければ古いだけ「暗黒部分」てものが多くなるわけで そのブラック・スポットに何が入るのかを推理し 喪失してしまった「回路」を思い思いにつなげてみるのが面白いんだと思ってる 真っ直ぐな線をつなぐ者もあれば ぐるぐるに絡まった線をつなぐ人がいるかも知れないし つながりゃいいんだよそんなもん だって元々真っ黒なんだから そこにあった本物の線は なくなっちゃってんだから

「お前間違ってる!」って言えるのは 本物の線を見たことある人だけなんだから

あり得ない説や成り立たない説は淘汰されて消えていくもんなんだから 放っておきゃいいんだよ 仮説のつぶし合いってナンセンスだと思うぜぇー
 

『真実の行方』1996年/アメリカ

 


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