本日の感想文。

2006年06月11日(日) 【出版本】アイヌの碑

本日の感想は、萱野 茂さんの【アイヌの碑】です。
エッセイになるのかな?

北海道に住んでいるのですが、アイヌについて詳しいわけではありません。

祖父母の代、親の代あたりでは、アイヌや朝鮮から連れてこられた人々に対して、あからさまに差別があったと感じます。
子供心に、なぜ? と聞いても、祖母は明確な答えを持ちませんでしたが……。
親の代あたりの人は、差別によって態度を硬化させた人たちを見ているので、やはり自分たちの親と同じように「だからこの人たちは……」という目になってしまったかな、と思います。
私の代になれば、もうほとんど意識はありません。
今、差別が無くなった……というのではなく、民族そのものがわからなくなってきて、ああ、この人はアイヌなんだな、などと思うことがないからです。

こころなしか、昔に比べて【アイヌ】という言葉も聞かなくなったように思います。
アイヌの人々自身、差別的に使われたことをよしと思わず、和人(本州方面からきた日本人)も差別用語として使わなくなったためでしょうか?
子供の頃は【コロポックルの冒険】というアニメがあったり、ごく普通にアイヌのお話も民話のひとつとしてあったような気がするのですが……。
大きな蕗の葉を傘代わりにして、コロポックルみたいだね、なんて笑った子供時代。今、コロポックルを知っている子供がいるのかな? などと思います。
わずか100年と少しで、貴重な文化が無くなろうとしている……。

社会が平和で差別なく……とするならば、愛国心やら民族意識やらなど、ないほうがいいのかもしれません。
あなたは和人、あなたはアイヌ、なんて線引きをしない、さらに世代が重なっていけば、自分がアイヌであることも知らない子供たちが……いや、もう知らない人たちがいるでしょう。
線を設けるから差別も生じる。そのほうがずっと平和なのかもしれません。
でも、そうやってひとつの文化が滅んでゆくのは大きな損失でもあると思います。

差別という繊細な問題があるので、無頓着な和人である私にはなかなかアイヌのことは語りにくいです。
でも、この本の著者が、最初、研究者を追い出すような状態から徐々に観光の仕事に携わるようになったり、アイヌ文化を継承しようと考えるようになったり……という過程にあるように、このままだとあと50年もしないうちに、アイヌの伝統は潰えるでしょう。

特に、アイヌ語について。
アイヌ語は、文字を持ちません。しかし、その代わりに見事な語り部は敬われるという、独特の伝承の技術があります。
ところが、文書は保存されますが、声は中々保存できない。なので、アイヌの人でもアイヌ語が話せなくなっているのです。
言葉が失われてゆくというのは、本当に虚しいものがあります。日本語にしても同じであり、考えさせれます。
とくに「先に死んだほうが幸せだ」という部分では、ちょっと涙が出てきました。
生活が辛いから先に死んだほうが幸せ……という話なのかと思っていました。が、読むと違うんですよ。
もう、自分たちの言葉を話せる人が少なくなってきて、アイヌ式の葬式をあげられなくなっている。
老人が3人集まって、先に死ねば残りの人たちにアイヌの方法で送ってもらえるけれど、最後に残ってしまったものは誰も送り出す人がいない……って話なのです。
これってものすごく寂しいなぁ……と思い、泣けてきました。

長々思いついたことを書いてきましたが、この本自体は差別の問題を訴えるものではなく、むしろ北海道の生活風景や作者自身の心の移り変わり、考え方の変化など、一人の人間が歩んできた道を見るようなエッセイです。

作者の萱野 茂さんは、その後アイヌ初の国会議員になったことで有名になりました。
ですが、これだけの苦しい生活を乗り越えて生きてきただけではなく、素晴しい文化人であることに驚嘆します。
どこにも苦学した様子は描かれていませんし、小学校までしかいっていず、しかも不登校。子供の頃から働き詰めの生活です。仕事も転々とします。
家族を支えるために働き続けた兄二人が、20代の若さで夭折していることからも、生きているだけで大変な様子がうかがえます。
ずっと恵まれている自分の不勉強さに……あたたたた……。


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