2005年08月24日(水) |
【オンライン掌編】鮭缶、あるいはその日ヒロシマで |
本日の感想は、ゆりかごさんの【鮭缶、あるいはその日ヒロシマで】という、タイトルそのものからも重そうな内容の作品です。 が、実はびっくりするほど淡々としていて、さらりと読めて、しかも考えさせられるお話です。
***引用*** 僕はそうか、とだけ言った――母さんが家の下敷きなんて信じられなかったが、信じるしかないんだろう。哀しいとかいうような感情は、どこかに置き忘れてしまったようだった。 ***引用終わり***
悲しみは度を超すと、逆に落ち着くのかもしれません。 母親の死に嘆き悲しむことすらない【僕】の態度が、逆にあまりにもリアルなんですよね。 派手な感情の爆発は、まったく抑制されている。それが、全く当然であるかのように。 10年後20年後、後から思い出しては悪夢でも見そうな感じです。 人間一人の屍でさえ怖いだろうに、ごろごろ転がっている焼けこげた骸の中を、当然のように歩いていることの異質さ。普通じゃない風景。 生きていてよかった。死んだと聞いて、ああ、そうか、やはり。 人間が、そう思えて不思議じゃない世界が目の前に広がっています。 その風景が、どんな嘆き悲しみよりも、より悲惨さを伝えているような気がします。
また、この作品の悲惨さは、放射能という爆弾自体よりも恐ろしいものの正体を、まだ主人公も誰も彼も気がついていないということです。 (昔見たアニメ映画を思い出しましたが、ちょっとタイトルを忘れました。風が吹くとき……だったかな?) 仲間たちが倒れてゆく様子、雪さんが弱ってゆく様子。 現状を知らないがゆえに、伝染病だと思い込んで手当をするようすが、何とも言えないです。 ちょっと話が脱線しますが、今話題のアスベスト被害でも、きっと自分がなぜ死ぬのか知らずに発病して死んだ人って多いのでは、などと思います。 自分の置かれている状態を何も把握できていず、それで希望や夢を未来を語り合うという、知らないで死んでいった雪さん当人は、もしかしたらまだ幸せなのかも知れません。 しかし、雪さんがなぜ死んだのかを知っている私たち読者は、余計にその死が虚しくも悲しいものに見えてしまいます。
でも、ひとつ希望があると思いました。 人はどんなに悲惨な悲しみを受けても、嘆き悲しんでは死に至らないということです。 第三者からみて、無駄で虚しい哀れをさそうような夢や希望であっても、辛いときにこそ希望をもとうとするものなのだな、と。 人はどのような地獄からでも復興できる力を内包していると感じます。 それは、最近では地震などの災害にあわれた方とその人たちを支援する人たちにも共通して感じることです。 人間には、立ち直り、思考し、強くなり、教訓として活かす力があるのではないかと。 広島ような悲惨な現実は二度と起こしてはなりません。 戦争のことは多くの方は語りたくはないことかも知れませんが、語りついでいくべきことが大切だと思っています。 過度な誇張のない作風とリアルさから、どなたかの体験談などをベースにしていると思われます。 逆に、ゆりかごさん自身の思いや主張が抑えられ、淡々と一人称でありながらも客観的な目を持って語られているがゆえに、読者のほうが疑似体験するかのようなリアルさを持ち、それぞれ様々に心動かされるのだと思います。
多くの雪さんと同じ運命を辿った人々の屍の上に、私たちは生かされている。 それをあらためて思い知らされた、非常に考えさせられる素晴しい作品だと思います。 是非是非、一読をオススメします。 リンクフリーの記述が見当たらなかったので、URLはこちらには載せませんが、興味ある方は、クラブA&Cから探してみてください。
|