……一番きらいな暴力ふるいました。 反省しています。 でも、修正しません。
常識を振り回すのは、言葉の暴力の中でもかなり凶暴な手だと、私は認識しております。 でも、やはり時に言いたいときもある……だなぁ、これが。 やってしまったのは、とあるBBSなのですが、書いたとたんに自己嫌悪になりました。 誰もこれが暴力だとは思わないかもしれません。 でも、私はわかっています。 自分がやられたら、一番痛い手だから、です。
あぁ、痛い。 感想は、自分の感じたように書く。 でも、時にこれが痛いんだなぁ……。 じゃあ、優しく作者が望んでいる言葉を汲み取って綴れば? という人がいるかもしれないです。 でも、一番一般的な感想が、常に誰しもを幸せにするわけではないと思うのです。
不思議なことに、甘くて優しい言葉が、すべての人を幸せにするわけではありません。 不幸なことが続いた人を元気付けようとして、 「きっとこれからはその分いいことがありますよ」 と言ったら、逆恨みされてしまったことがあります。 次から次へと襲ってくる不幸に打ち負かされている人には、希望は時として残酷な言葉らしいです。 不幸を知らないあなたが何を言う! となるわけです。 もちろん、言った本人だって、数知れずの不幸を乗り越えてきているかもしれないのですが、不幸に目がくらんでいるときは、自分が世の中で一番不幸じゃなければならないのです。 誰にも理解できないような不幸なのです。
幸か不幸か、私には「死んでやる!」と本気で思うような不幸なこともありましたが、喉元すぎればたいしたことでもなく、その証拠に今を元気で生きているわけで、なかなか不幸がわかりません。 ここまでの人生の中で「あれって絶対ノイローゼだったよなぁ」と思える時代もありましたが、今から思い出すと、何であのようなことで、精神的に追い詰められてしまったのか、皆目検討が付きません。 ある種の言葉の暴力を延々と受けていたような気がします。 ただ、立ち直るきっかけは 「私は何も間違ってはいない」 と、信じることだったことは、覚えています。
私は天邪鬼なのか、他人が「感動的な話」というものに「嫌悪」を抱くことがあります。 もちろん、全部ではありません。時に涙する感動話もたくさんあります。 ですが、あまあまのいかにもお涙ちょうだい……をやられてしまうと、腹立たしくまでなるわけです。 別に感動しない……なんていうと、しくしくしながら、 「あなたには心がないの?」 なんて、本当にお優しい言葉を吐いてくれる人がいたりします。 こういうタイプの人は、全員揃って同じ感覚でなければ駄目で、違うとすぐに「人ではない」ようなレッテルを貼ってくれます。 彼らにそのようなレッテルを貼られると自分が心もとなくなるので、別の人は口を開く前にこういいます。 「皆さんの意見を聞いてから、自分の意見をまとめます」
私は、自分の感じたとおりにしか、感じ取れないのです。 たとえ私に心がなくても、それはもうないのだから仕方がないというしかない。 その点では、私は常に100%間違っていないのです。 傲慢だ、と言われたこともあるし、思いやりがないとも言われたこともあるんです。 そのたびに私も傷つきます。 ですから「たぶん、普通の人はこう感じるのだろう」というのを予測して、現実の生活の中ではそのように振舞うこともあるのです。 でもそんな行為は【創作】の中には入れたくはないです。 いかに自分が感じていることを文章にこめるか? が、物を書く動機となっているのだから、嘘は書けないです。
もしも、私が自分に嘘をついて、人に合わせて感想を書いたとしたら……。
たぶん、私の感想を読んで、 「自分の代弁をしてくれた」 と、思ってくれた一握りの人の心を踏みにじるでしょう。 ならば、きっと何も書かないほうがマシですね。
とはいえ、時々本当に自分の凶暴ぶりに自分でノックアウトされるときがあります。 で、今がきっとその時です。
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