鶴は千年、生活下手

2015年12月25日(金) 嫌いなものはと言えること

先週、療育に行って、ストレスのもとについて話し合った。
嫌なもの、嫌いなものってどんなものかという話。
植物全般が苦手な息子だが、チューリップとかなら大丈夫かもと
言うのだが、それを「チューリップは普通。」と表現した。
「普通」って、どういうことかとさらに聞いてみると、嫌だけど
普通に我慢できるということのようだ。
臨床心理士の先生は、「じゃあ、もし会社に行くようになって、
チューリップが大丈夫なんだからと、ずらっと並べられたらどう
思う?」と訊ねたら、「それは嫌。」と答えた。
だから、そういう、我慢できるけど嫌っていうものも、嫌でいい
んだと伝えていく。

すると、出るは出るは。
かなりいろんなことを少しずつ我慢していることが判明した。
すこぶる苦手なものは把握していた通りだったが、それも我慢し
てたのかというようなものも、けっこう有った。
そりゃあ、学校は我慢の連続だねえと、母と臨床心理士は思った。
田舎じゃ暮らせないなとも思った。
植物も、動物も、ほんとは全般的に苦手。
かわいい動物も、見てるだけなら良いが、実物は触りたくないの
が本心だろう。

それでも、宿泊学習や修学旅行で林の中を歩いたり、校外学習で
動物とのふれあい体験をしたりするわけで、少しずつの我慢をし
ながら、全体として楽しかったという体験になっているのだろう。
みんなと同じにしていなくてはならないことは、子ども達みんな
がそれぞれに少しずつの我慢を積み重ねてのことだろう。
ストレス要因が多いとか、ストレスに弱いとか、社会に出たとき
にはどこまでが許容範囲なのかを、自分自身が把握しておけたな
らば、少しは暮らしやすくなるのだろうか。

障害者の雇用が進むなか、それぞれの障害に合わせて、どういう
配慮をしてもらうかを、自分の言葉でしっかり伝えられるのも、
また自立への一歩なのではと思う。


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市屋千鶴 [MAIL]