鶴は千年、生活下手

2011年09月02日(金) 開放感と

昨日から2学期が始まって、久しぶりに自由な午前中。
夏休みは、透析日以外はなるべくもぐちゃんの希望に添うように
と、電車乗りに行ったり出かけたりしていたので、ひとりきりで
ぼーっとする時間がなかった。

子どもが大きくなって学校に行くようになると、毎日一緒にいた
幼児の頃が大変だったなあと思い返す。
それはもちろん、自分の体調が悪かったこともあるのだが。
わたしがもぐちゃんを産んだすぐあとくらいに、アパートの隣に
住んでいた奥さんが、「1年がんばれば、あとは楽になりますよ。」
と言ってくれたことがあった。
お隣さんは女の子だったから、大きくなるにつれて扱いやすくな
っていったのだろうと思う。
うちは男の子だからか、発達障害のせいなのか、大きくなるにつ
れて目が離せなくなった。
まあ、子育ての大変さは子どもの年齢によって異なるが、その時
期が過ぎると懐かしく思えるのは、どの時期も同じだろう。

過ぎてしまえば懐かしい思い出だと言えるのは、自分の中でそれ
がきちんと終わっているから言える言葉なのだと思う。
何事も終わってしまえば、何ということは無いのだ。
今が辛くても、それはいつかは終わることだと、現実はしっかり
と受け止め、前を見ていればいいのだと思う。
自分の中の辛い思い出は、きちんと終わらせなければいけないと
思う。
そうしないと前には進めない。
そのために書くこと、言葉にすることが大切なのだ。
人に話すのも大切なことだが、感情のままにとりとめの無い話に
なってしまいがちなので、一度文字にして気持ちを整理してから
人に話す方が、きちんと終わらせられるような気がする。

終わらせるからといって、それが無かったことになるのではない。
ただ、思い出として客観的に見ることができるようになるという
ことだ。

短歌にすることができるようになるのも、気持ちに整理がついて
からのような気がする。
しかし、亡くなった父のことは、気持ちの整理はとっくについて
いるにもかかわらず、短歌にはできないのはなぜなのか。


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市屋千鶴 [MAIL]