鶴は千年、生活下手

2011年01月12日(水) ふりかえると

いつからこの日記を始めたんだっけ?と、古いテキストをちら読
みしてみた。
う〜ん、むかしはいろいろなことをちゃんと考えてたなあと感心。
なんといっても夫婦二人だけだったし、病気の方も進んでいなか
ったし、考える時間がいっぱいあったんだなと思った。
今は、週に3回の透析で4時間ずつ自由に考える時間があるとい
うのに、寝てるかテレビを見ているかという有り様で、短歌すら
たまに考える程度である。

目の前に何も無い状態で何かを考えるということが苦手なわたし
は、パソコンの前だとよく文章が浮かぶし、短歌もできやすい。
思い付いた時にすぐに記録できることが大事。
しかし、それはメモ帳ではだめらしい。
手で書くよりも入力する方が速いので、書いているとじれったく
なるし、なにより字が下手で、書かないから余計に下手なままと
いう悪循環。
子どもへの手前、そんなことではいけないのだが、書くのは苦手
である。

過去を振り返っていろいろ考え、それを文章にするということは、
その事自体に回復効果があって、書くことによって過去から解放
されていくような気がする。
文章にすることができるということは、もうその事柄に捕われ続
けなくてもよくなってきているということ。
まだまだ意識がその事象に捕われている間は、文章にするだけの
客観性を持つことができない。
文章にすることは、つらいことでもあるが、大事なことである。

わたしの場合は混沌とした思考を論理的な文章にしようとする行
為によって、混沌の中に道筋ができ、混沌との間に距離を持つこ
とができた。
第三者の目を持つことが必要だったのだろう。
別れた父親への漠然とした不満や拒否といったものが、実はどう
いう感情だったのか、何が許せなかったのかということを見つめ
直すために必要だった。
何が許せなかったのかがわかったとき、では許せることは何なの
かが見えてきた。
許せることが見えてきた時、楽になった。

生きていくのに、心が楽な方がいいに決まっている。
体はしんどくても、心がしんどくなければなんとかなるものだ。
今は、体より心のしんどい人のほうが多いのではないだろうか。


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市屋千鶴 [MAIL]