昨日、南大沢までの電車の中で、お父さんと一緒の男の子を見か けた。 多摩センターで、その子は降りた電車にバイバイするといって、 お父さんとホームに残っていた。
子供を持つまで、わたし達の未来の姿として意識したのは、年老 いた仲のいい夫婦の姿であり、小さな子供を連れた人達の姿は、 わたしにとっては姪や甥と過ごした過去の姿だった。 しかしながら、今では、子供連れの夫婦や親子連れの姿は、最も 身近な未来のこととなり、そのことに戸惑いすら覚えた。
どうしてもわたしには、いまだに現実味の薄いことなのだ。 今現在が夢ではないのかと、まだ思ってしまう。 いつか目が覚めて、夫と二人の暮らしに戻るのではないかという 気持ちもあったりするのだ。 それは、不安でもあり、安堵でもあるのだ。
結婚も、出産や育児も、勢いでできるのが適齢期なのだなと思う。 先のことばかり気にしているような年齢になってからでは、余裕 はあるようでないのかもしれない。 やはり、人一人の命を守り育てることを考えてしまう。 命などと言う大事なものを、わたしは守り育てて行けるのかと。 自分の体の心配さえしていればいいというわけにはいなかいとい うことの重さ。 自分の体調管理はしたいし、さりとてもぐちゃん優先で暮らして いて、自分のことはおろそかになりがちである。 自分の体を大切にしないと、もぐちゃんをちゃんと育ててはいけ ないのにという気持ちと、そうできない実際とのギャップに焦る。
とはいうものの、もぐちゃんの命はもぐちゃんが持って生まれた 生命力に基づくものであり、親はただそれの手助けをしていくの に過ぎないのだとも思う。 いつまでも手元においておきたいとは思わない。 早く大きくなって、自立できるようになってほしい。 授かった命は、もぐちゃんのものだから、自分自身で人生を歩い てゆけるように早くなってほしい。 それが、思いがけず子供を授かった、年老いた病気持ちの母親の 本当の気持ちなのである。
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