鶴は千年、生活下手

2002年09月28日(土) 13年前(やや長いです)

13年前の午前4時20分。母が亡くなった時間。
平成元年の春、母は人工透析を始めた。
腎臓は、多発性腎のう胞という病気で機能しなくなっていた。
腎臓の中にのう胞(袋)ができていて、年を重ねるごとにその
のう胞が大きくなっていく病気。

人工透析になる前は、具合が悪くて入退院を繰り返していた。
だから、透析を始めて元気な母を見るのは嬉しかった。
その年の9月、母は故郷に2週間ばかり帰った。
なんだか久しぶりにいろんな人に会ってきたって言ってた。
これまで話をしなかったことも話したりしたらしい。
そして、故郷から姉の家に戻ってきて1週間後、母は倒れた。
脳出血だった。秋分の日の前日だった。
わたしが母に会ったのは8月だったから、1ヵ月経っていた。

まだ、銀行員だったわたしに、姉から電話がかかってきたのが
10時くらいだった。
母が倒れて手術をするという連絡。
電話の後、わたしは何をどうしたらいいのかわからず、友達の
席に行った。
友達に、「しっかりして。上司に言ってすぐに帰るのよ。」っ
て言われて、やっと涙が滲んできた。
本当に何をどうしていいかわからなかったのだ。

処置室の母は、呼びかけるとまだ体が動いた。
意識はなくて、反応だけはするようだった。
それから長い長い手術が始まった。
待っている間、わたし達は食事をした。
姉は、喉を通らないと言った。
わたしと義兄は胃が痛いと言いながら、無理矢理食べた。

手術室から出てきた先生は、脳圧がさがらず止めても止めても
次々と出血すると言った。それで時間がかかったと。
脳圧が下がらないので、開けた頭蓋骨を元に戻すことができな
かったのだとも言った。はっきり言って脳死状態なのだと。
倒れた日は、透析をするはずだった日。
手術後に透析をしたが、脳の機能がちゃんと働いていないと、
透析してもだめなんだって。
あとは、腎不全になるのを待つだけだって言われた。
心臓は丈夫な人だったから、腎臓に障害が無ければ植物状態で
生きていたかもしれない。

もって1週間。
その1週間がわたし達に残された時間だった。
母が死んだら、お墓をどうするのかって問題になった。
不謹慎だって思うかもしれないが、母は自分が死んでも実家の
お墓には入りたくないと言っていたのだ。真剣に相談したよ。
そして、義兄がお墓を立てるから、そこに最初に入ってもらう
と言ってくれた。ありがたかった。
その頃住んできたところから1時間とかからない場所に、母の
お墓ができるのだから。
義兄はわたしに、「おまえも嫁に行かなかったらここに入れば
いいんだからな。」と言ってくれた。
母と姉と同じお墓に入るんだよって思っていた。

母が息を引き取った時、病院にはわたしと姉と義兄が泊まり込
んでいた。
母の体温はすぅーっと冷たくなっていった。
ああ、本当に冷たくなるんだなぁと思った。
ベッドの側で泣いていたのはほんの1、2分だったか。
母の死後の処置のために病室から出るように言われた。

 体温が冷えゆくことの確かさを認めてなおも母を呼び止めむ
                             (市屋千鶴)

ナースステーションの横で、姉とわたしは泣いていた。
それまでの1週間で覚悟はしていたのだけれど。
母の遺体は義兄が付き添って自宅に運ばれた。
わたしと姉は、半分泣きながら母の話をしながら駅まで歩いた。
ゆっくりゆっくり歩いて、泣きはらした目で電車に乗った。

大事な大事な、大好きな大好きな、尊敬する母だった。

あれから、13年。
姉は、母と同じ病気で昨年から人工透析をしている。
母よりも10年以上早い。
わたしにもある、のう胞。
わたしは大柄だからか、体質なのか、姉よりも大きくなるのが
遅いらしく、それほどの影響はでていない。
きっとわたしは母と同じ年くらいまではもつのだろうなぁ。

姉は脳外科手術2回、腎臓全摘出&肝臓一部切除手術、そして
十二指腸潰瘍の手術と4回の大きな手術を繰り返している。
最初のくも膜下出血の手術から、その度に不死鳥のように復活
するんだよね。(えらいぞっ、ねえちゃんっ!)
いつかやってくる死というものを、わたしも義兄も姪も甥も、
意識しないでは居られない。

 身近にある姉の命はぎりぎりのところでいつも踏ん張っている
                             (市屋千鶴)


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