きっと、いろんなところで1年前のテロの話題が持ち出されて いることだろう。 確かにあんな形で命を奪われてしまうのは、本人にも遺族にも 堪えがたいことだと思う。
しかし、阪神淡路大震災で亡くなった人々と、交通事故で亡く なった人々と、病気で亡くなった人々と、さまざまな犯罪で亡 くなった人々とどこが違うのか。 肉親を亡くした悲しみは、それがどんな形であろうと同じなの ではないのか。 悲しみは同じでも、それに憎しみがついてくるかどうかなのか。
異なるのは、憎むべき相手が国際的に統一されていること。 国家への攻撃として認識されていること。 報復という名の「戦争」が行われたこと。
13年前の9月、わたしは母を亡くした。 脳出血で倒れて手術し、1週間後に亡くなった。 わたしと姉と義兄の見守る中で冷たくなっていった。 母の遺体は義兄が付き添って自宅に運ばれた。 わたしと姉は、半分泣きながら母の話をしながら駅まで歩いた。 ゆっくりゆっくり歩いて、泣きはらした目で電車に乗った。 母という支えを失ったわたしのその後の3年は酷いものだった。
テロは許し難い行為。 が、しかし、報復という名の戦争もまた許し難い行為なのでは ないだろうか。 たとえどんな大義名分があっても、巻き込まれて罪もない人々 の命が消されていくのは、許されるべきではないと思うのだ。
ただひたすらに、亡くなった人々を追悼するのみだ。
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