| 2005年11月10日(木) |
ピカソの陶芸 (異国更新によせて) |
前々回の異国「輝いて」で触れました、ピカソの陶芸に ご興味を持ってくださった方がいらしたので、 美術については門外漢なのですが、 ご参考まで少しだけこちらで触れさせていただければと 思います。
ピカソはとても有名な画家で、多くの展覧会、 美術館で展示がなされていますため、 自分も好き嫌いを超えて、これまで少しずつ いろんな作品を見る機会がありました。
けれど、あれほど世界的に有名な画家なのに、 つい先年まで、どうしてこの方の作品がそれほどまでに 評価をされるのか、 どこに魅力があるのか、 自分の中でピンと来るものを得られずにおりました。
でもおそらくそれは、自分がまったく美術を 勉強していないためだろう、 また絵を描けないせいもあるだろうし、 彼の絵の魅力を理解する能力を悲しいけれど 自分は持っていないということだろう、 と長くそんな風にあきらめの気持ちを抱いておりました。
そして出会ったのが彼の絵皿と陶芸でした。
ひと目で、本当にひと目で自分はこの世界が好きだと 思いました。
世界的に有名なMoMAやポンピドゥーといった場所で 大作を見つめても得られなかった「いいなあ…」の感情を、 初めて彼の陶芸で持つことができたのです。
異国で少しだけ取り上げるにあたり、 陶芸を見た現地で記したメモに加え、 ウェブや大きな書店でピカソの陶芸について 手の届く限り(お値段的にも(笑))資料を あたってみました。
そうする中で、実物を見た現地にはなかった 別の多くの陶芸の写真にも触れることができ、 もちろん実物の迫力には及ばないと思うのですが、 「あぁいいなあ、楽しいなあ」と、ますます 彼の自由な世界に惹かれてゆきました。
自由、と上で書きました。 ピカソはこんな言葉を残しています。
「誰もが芸術を理解しようとする。 しかしなぜ鳥の歌を理解しようとしないのか。 人が自分をとりまくすべてのもの、 夜や花を理解しようとしないで、愛せるのはなぜだろうか。 なぜか絵画にかぎって、人は理解したがるのだ。
私はきっと根本的に様式を持たない画家なのだろう。」
(「ピカソ美術館めぐり」 p96 p/b新潮社)
自分が、理解しよう理解しようと思っていた そのこと自体の間違いを、 彼自身が指摘し分からせてくれた言葉でした。
同じことが音楽に演劇に文学に、 料理にお酒にその他何にでも あてはまるのかも知れません。
そしてとかく頭で理解しようとしがちな幸鷹には、 このピカソの言葉をそのまま体現したような 翡翠という人は、わからないけれど惹かれる 生きた美術品のようなものなのかも知れないと思います。
…と、すみません、翡翠をちょっと褒めすぎでしょうか…?
(そうでもないかな?^^)
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