「隙 間」

2011年03月01日(火) 「アンチクライスト」

三月一日。
映画サービスデー。

平日だが仕事の波は未だ高くならず、これはチャンスである。

何よりも、わたしのなかでわたしのすその方が、「びろーん」と力なく、伸びて、ぷるぷると震えはじめていたのである。

このままではヤバい。
九月のクラゲのように、波に揺られるまま砂浜に打ち上げられてしまうか、編み掛けの完成間近の手編みのマフラーの糸はしを、子どもが好奇心で「ピーッ」と思い切り引っ張って、すっかり解きほぐされてしまう。

ゆかねば。

通勤途中に有楽町があるのは、ありがたい。

「おおっ、神よ!」

そうして選んだ作品が、これである。

「アンチクライスト」

をヒューマントラストシネマにて。

最初に断っておこう。

この作品は、生半可なテーマ、内容ではない。

評価はゼロ、いやマイナスか百かとの極端な、さらに評論家らでも明らかな賛否、異論反論が沸き起こったらしいのである。

なにせ「アンチ」の「クライスト」、つまり反キリストともとれるタイトルである。

いきなり誤解されてはならない。

いやしかし、それにかかるテーマの部分はあるかもしれない。



雪降る夜。
夫婦がセックスに激しく夢中になっていたそのさなか。
隣の子供部屋で寝かしつけてあった子どもが目覚め、ベビーベッドを乗り越え、さらに半開きの窓からバランスを崩して落下死してしまう。

妻をそのショックから立ち直らせようと、セラピストである夫が妻を森の奥にある自分たちの別荘へ連れてゆき催眠療法をはじめる。

やがて妻の内面に眠っていた心理が発露してゆく。

恐怖や不安を紛らわす為にセックスを夫に求める。
それこそが、我が子を失った行為であるとわかっていながら。

自責行為。
そして、
自己解放。

やがて夫は、妻の最も恐れるものが妻自身であると結論づける。

しかし、そう単純なものではなかった。

妻が論文のために集めていた中世の拷問や魔女狩りの資料をみつける。

女だから、という理由で殺されていた時代。

女性=悪魔
理性=抑圧
本能=自然
禁忌=快楽

子どもの足に奇形がみられた。
子どもの写真はすべて、靴の左右を逆にして履かされていた。

私を捨てないで。
離れてゆかないで。

「患者になって、はじめてあなたに興味を持った気がするわ」

妻は言っていた。

「あなたは私と距離をおいていた」

「男は女を下に見ている。だから、悪魔と決めつけて殺したのよ」

別荘の山小屋がある「エデン」の森なら、妻もいき慣れているし、リラックスしてリハビリできるだろう。

森は自然の教会よ。

悲嘆、苦痛、絶望、そして三人の乞食。
三人の乞食が現われるとき、ひとが死ぬわ。

セックスを渇望し。
自慰に溺れ。

子殺しの原罪をおいつつ、それでも禁忌を冒すその姿に、木々の根の間から、それを求めるかのように無数の手が伸びてくる。

解放された者。
生の生者。

子鹿を半身まで産みかけたままで、それを気にしないでかけてゆく母鹿。

裂いた自分の腹から内臓を噛みちぎり食べる狐。

地面に埋められていたが掘り返されてよみがえり、しかしすぐ何度も地面に殴り付けられて殺されるが、またすぐよみがえり、殺され続けるカラス。

気を失った夫の性器を潰し、さらにゴリゴリと手巻ドリルで足に穴を開け、グラインダーの砥石の軸を通して枷をつける。

意識を取り戻した夫は、妻の隙をついて逃げ出す。

頭ほどある大きさの砥石の枷つきの足をひきずり、這いながら、狐の古穴までかろうじて。

「私を助けてくれるんじゃなかったのか!
私を捨てやがって、ぶっ殺してやる!」

妻に見つかり、穴に生き埋めにされる。

「ごめんなさい。なんてことを!」

妻は夫を地面から引きずりだし、救い出す。

妻は、自分の性器をハサミで、切り落とす。

鹿と
狐と
カラスが

眠りに就いた妻のかたわらに、よりそう。

ふたたび意識を取り戻した夫は、砥石の軸が抜けないよう止められていたボルトを外すレンチをみつけ、逃げ出そうと試みる。

妻が目覚める。

妻の首に、夫の両手の指が食い込んでゆく。

妻の亡骸に薪を組んで火を点ける。

夫、いや男は、森を抜ける途中、野苺をつまみ、空腹と渇きを癒す。

丘を越えればもうすぐ、というところで、大勢の女たちが森に向かって逃げ込むように、あるいは嬉々として駆けてくる。

しかしひとりひとりの顔はわからない。

男は、森=自然の教会(本性・本能・禁忌の解放)から、人里(理性・道徳・規範の世界)へと、救われようとする。



監督はラース・フォン・トリアー。
かのメジャー・ーティストであるビョークを主演に迎え、ひたすら鬱な気分にさせられたと話題になった「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の監督である。

今回もまた、カンヌ映画祭を称賛と嫌悪で真っ二つにし、日本では公開不可能といわしめたのである。

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は、公開時に観てある。

へん。
アメリカの移民の不幸な物語で。
だからなんなのさ。

同監督のアメリカ三部作の第二弾「マンダレイ」も、観た。

なるほど。
そうだ、この後味の悪さこそ、思い出してきた。

この作品、いや監督作品は、まさに禁忌を冒し続けているのである。

へえぇ。

という感想や感動を求めてはならない。

ふうん。だから?

という、異物感や嫌悪感や後味の悪さを味わおうという、好奇心やひねくれやらその底の深さがあると思うひとは、観てみてもよいかもしれない。

しかし、騒ぐほどの描写や物語などではなかった。

むしろ芸術的なほど描写の美しい映像だったり、音楽やオペラを絶妙な対比で挿入していたり。

いや。だからこそ、ふっきれないような物足りなさに繋がってしまったのかもしれない。

一を信じるものは、その一によってゆさぶらるる。


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