「あれ。わたしをひとりきりにして、先に帰っちゃうんだ」
馬場さんがめずらしく、夜の七時を回っても残業をしていたのである。
彼女は二歳になるお子さんを迎えにゆかねばならないため、毎日定時で帰らねばならないのである。
仕事だから、それこそたまに遅くなることもある。
しかし、旦那さんは深夜にならずば帰らない、とあらば、お姑さんと同居しているとはいえ、お願いしてばかりもできないのである。
さて、そういわれてあたりを見回すと、わたしと馬場さん以外は、皆、既に帰宅済みである。
「バレンタイン・デートで帰るんだったら、気持ちよく送り出してあげるけど」
ふふん、とわたしを見る。
「たしかに、貰うものを貰いに、帰りますけど」
え、ホントに。
ではなく、
何の強がりを言ってるんだか。
という顔を、こちらに向ける。
いや、ホントですよ。
マジで、ホントに、なの、と目を見開く。
お薬をもらいに、お医者さんのとこに。 コレステロールの。 の、ですかねえ。
チッ、と舌を鳴らされてしまった。
そういうことにしておくのが、無難である。
さて、そうして、大森である。
いったはよいが、イ氏がなんと不在であった。 どうやら、芝大門のほうにいるらしい。
あてが半分、はずれて、息を吐く。 すると、残り半分は、はずれずにすませてくれたのである。
「もう、二週間たっちゃいましたか」
ケイちゃんが、パタパタと現れたのである。 あっという間ですねえ、とクリクリ笑いながら、部屋に通される。
今日はイ氏の代わりに獅童さんが、とあらためて説明をしてくれる。
獅童さんとは、もちろん実名ではない。 たいがいにもれず、わたしが勝手につけた呼び名である。 若く、顔の上半分が二十代の頃の松岡修造似で、下半分が中村獅童似の方であったので、そう呼ぶことにした。
それはさておき、いつも通りにケイちゃんがわたしに質問してゆく。
いつも通りではないのが、イ氏がいない、ということであり、そのせいか、いつもよりどこかが違っているようでもあったのである。
えっと。
書き込みながら短い沈黙ののち、不意をついてきたのである。
会社でバレンタインのチョコとか、もうもらいましたか?
なるたけ、触れてはならなかったことである。
沈黙を埋めようと探した話題が、わたしのなかにすきま風となって吹き込む。
いや。まったく。 そうなんですか。 聞かれるたびに、寂しさが、すきま風になって吹き込んで……。
わたしは、ここでもう少し気のきいた返答をすべきだったかもしれない。
「貴女のためにすべて受け取らなかったんだよ」 「歯はまだ磨いてないから、ありがたくいただくよ」 「チョコの代わりに、お薬を貰いにきた」
わはは、と笑い飛ばせるようなのがこそ、相応しかった。
でなければ、ただ寂しいだけ、で終わってしまう。
終わってしまったのである。
寂しいわけでは、けっして、ない。
獅童さんとは初見であったので、ざっとはじめのあたりからの話をする。
おかげさまでかれこれ数年来、お世話になっております。 いえいえ。こちらこそよろしくお願いします。
せっかくなので、最近の学会からの目新しい発表だとか、世間での通説や流れについて、空とぼけて聞いてみる。
どうやら、相変わらずあいまいで未確定で、確たる解明などは見つかっていないらしい。
ただし。
脱力なくして鳴子にあらず、との定義が、どうやら真説とはならずにいるようなのである。
もし、モディ夫は出せず、リタ嬢やら別嬢やらしかやれぬ、となったらどうしやう、という懸念が、常に消えることなくつきまとっているのである。
米国でも、鳴子以外に出してるから、きっと大丈夫ですよ。 日本国は、また別ですよね。 ええ、まあ。
歯切れ悪い獅童さんだが、彼のせいではない。 そうなったらやむを得ない、のである。
脇にちょこんと座っているケイちゃんが、イ氏のときとはうって変わって、真面目なことを話しているわたしたちを、ぱちぱちと目をしばたいてみている。
いやぁ、いつもイ氏と雑談しにきてるだけ、なんじゃないか、と思うことがあって。
ちらりとケイちゃんを見る。 獅童さんもつられてケイちゃんを見る。
慌てて、いやいやいや、そんなこと、ないですよお、とかぶりをふる。
獅童さんは、若いが、イ氏のようにあれはいいとかこれはあれだとか、話しこめる様子の方ではないようである。
ああ、とわたしに向き直る。
余計な作用もなく無理なく落ち着いてるなら、まあ心配ないでしょう。 まあ、無理はしませんから。
あっはっは。
声を出したのはわたしだけである。 ケイちゃんはいつも通りはにかむように、声には出さない。 獅童さんは、笑っていいものかわからぬ様子で、まあまあ、と。
なんだかやはり、消化不良のまま、部屋を出る。
「すみません。イ氏は今月、週末は芝大門で診ることになってるんです」
よほどわたしがムズムズした顔をしていたのか、長きの付き合いから察してくれたのか、受付嬢が表をくれたのである。
日曜の朝なら、いえ、それはヤなんですよね。
さすがわかってくれてる。
たいへんありがたいことである。
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