「隙 間」

2010年02月12日(金) 消化不良のおおもり

「あれ。わたしをひとりきりにして、先に帰っちゃうんだ」

馬場さんがめずらしく、夜の七時を回っても残業をしていたのである。

彼女は二歳になるお子さんを迎えにゆかねばならないため、毎日定時で帰らねばならないのである。

仕事だから、それこそたまに遅くなることもある。

しかし、旦那さんは深夜にならずば帰らない、とあらば、お姑さんと同居しているとはいえ、お願いしてばかりもできないのである。

さて、そういわれてあたりを見回すと、わたしと馬場さん以外は、皆、既に帰宅済みである。

「バレンタイン・デートで帰るんだったら、気持ちよく送り出してあげるけど」

ふふん、とわたしを見る。

「たしかに、貰うものを貰いに、帰りますけど」

え、ホントに。

ではなく、

何の強がりを言ってるんだか。

という顔を、こちらに向ける。

いや、ホントですよ。

マジで、ホントに、なの、と目を見開く。

お薬をもらいに、お医者さんのとこに。
コレステロールの。
の、ですかねえ。

チッ、と舌を鳴らされてしまった。

そういうことにしておくのが、無難である。

さて、そうして、大森である。

いったはよいが、イ氏がなんと不在であった。
どうやら、芝大門のほうにいるらしい。

あてが半分、はずれて、息を吐く。
すると、残り半分は、はずれずにすませてくれたのである。

「もう、二週間たっちゃいましたか」

ケイちゃんが、パタパタと現れたのである。
あっという間ですねえ、とクリクリ笑いながら、部屋に通される。

今日はイ氏の代わりに獅童さんが、とあらためて説明をしてくれる。

獅童さんとは、もちろん実名ではない。
たいがいにもれず、わたしが勝手につけた呼び名である。
若く、顔の上半分が二十代の頃の松岡修造似で、下半分が中村獅童似の方であったので、そう呼ぶことにした。

それはさておき、いつも通りにケイちゃんがわたしに質問してゆく。

いつも通りではないのが、イ氏がいない、ということであり、そのせいか、いつもよりどこかが違っているようでもあったのである。

えっと。

書き込みながら短い沈黙ののち、不意をついてきたのである。

会社でバレンタインのチョコとか、もうもらいましたか?

なるたけ、触れてはならなかったことである。

沈黙を埋めようと探した話題が、わたしのなかにすきま風となって吹き込む。

いや。まったく。
そうなんですか。
聞かれるたびに、寂しさが、すきま風になって吹き込んで……。

わたしは、ここでもう少し気のきいた返答をすべきだったかもしれない。

「貴女のためにすべて受け取らなかったんだよ」
「歯はまだ磨いてないから、ありがたくいただくよ」
「チョコの代わりに、お薬を貰いにきた」

わはは、と笑い飛ばせるようなのがこそ、相応しかった。

でなければ、ただ寂しいだけ、で終わってしまう。

終わってしまったのである。

寂しいわけでは、けっして、ない。

獅童さんとは初見であったので、ざっとはじめのあたりからの話をする。

おかげさまでかれこれ数年来、お世話になっております。
いえいえ。こちらこそよろしくお願いします。

せっかくなので、最近の学会からの目新しい発表だとか、世間での通説や流れについて、空とぼけて聞いてみる。

どうやら、相変わらずあいまいで未確定で、確たる解明などは見つかっていないらしい。

ただし。

脱力なくして鳴子にあらず、との定義が、どうやら真説とはならずにいるようなのである。

もし、モディ夫は出せず、リタ嬢やら別嬢やらしかやれぬ、となったらどうしやう、という懸念が、常に消えることなくつきまとっているのである。

米国でも、鳴子以外に出してるから、きっと大丈夫ですよ。
日本国は、また別ですよね。
ええ、まあ。

歯切れ悪い獅童さんだが、彼のせいではない。
そうなったらやむを得ない、のである。

脇にちょこんと座っているケイちゃんが、イ氏のときとはうって変わって、真面目なことを話しているわたしたちを、ぱちぱちと目をしばたいてみている。

いやぁ、いつもイ氏と雑談しにきてるだけ、なんじゃないか、と思うことがあって。

ちらりとケイちゃんを見る。
獅童さんもつられてケイちゃんを見る。

慌てて、いやいやいや、そんなこと、ないですよお、とかぶりをふる。

獅童さんは、若いが、イ氏のようにあれはいいとかこれはあれだとか、話しこめる様子の方ではないようである。

ああ、とわたしに向き直る。

余計な作用もなく無理なく落ち着いてるなら、まあ心配ないでしょう。
まあ、無理はしませんから。

あっはっは。

声を出したのはわたしだけである。
ケイちゃんはいつも通りはにかむように、声には出さない。
獅童さんは、笑っていいものかわからぬ様子で、まあまあ、と。

なんだかやはり、消化不良のまま、部屋を出る。

「すみません。イ氏は今月、週末は芝大門で診ることになってるんです」

よほどわたしがムズムズした顔をしていたのか、長きの付き合いから察してくれたのか、受付嬢が表をくれたのである。

日曜の朝なら、いえ、それはヤなんですよね。

さすがわかってくれてる。

たいへんありがたいことである。


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