「隙 間」

2010年01月01日(金) 年頭の誓い

新年がはじまってしまったのである。

「しまった」というのは、警戒や後悔の意などではなく、己では如何ともし難いものやことに対する表現である。

今年は地元、いわゆる故郷にて迎えたのだが、どうにも、身の置きどころのようなものが、こころもとない。

それはつまるところ自らに因るものなのだろうが、それは棚の上にあげておき、とりあえずの身の置きどころを探し歩いてみたのである。

駅前に向かうにあたり、ちと、ぐるりと回ってみたのである。

それはまだたしかランドセルを背中にひっかけていたころ、はじめての補修塾なるところに通っていた、京成線の駅のほうである。

水鳥公園の石碑を見かけ、懐かしさのみにあらず、なぜかここをゆかねばならぬ、と袖をひかれたのである。

かつてここを訪れて以来、干支がふた回り分くらいしてしまっていた。

きれいに整備され、ふむふむかつてのはこのあたりだったか、と池の向こうに目を見遣ると、お社に、ずらりと列。

菊田神社

であった。
今日の今まで、まったく知らなかったのである。

初詣に並ぶ、およそ百メートルの列の人々を横切り、由来だのご祭神だのをつらつらと流し読む。

うむむ。
なんというか。

よほど、縁があるようである。

オオナムチノミコト、つまり、

大国主命

とである。

有名かつ、かかすことできぬ神のひとりではあるが、振り返ると、わたしの暮らすさきざきの地で、おらなかったことなど一度もないのである。

これは谷中に帰ったら、すぐさま神田大明神に初詣にゆかねばなるまい。

身の置きどころは、やはりみつけるようなものではないのである。

つくるもの、
築くもの、
あるべくしてあるもの、

なのである。

身勝手を振る舞っているのだから、それは覚悟をしてあるはず、すべきことである。

ほかになにをや望まんや。

大事な一を望むなら、
ほかの九は望むまじ。

すべてを背負ってゆくのが夢ならば、
すべてをひきかえにするのもまた夢。

逆光を背に、いざゆかん。


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