新年がはじまってしまったのである。
「しまった」というのは、警戒や後悔の意などではなく、己では如何ともし難いものやことに対する表現である。
今年は地元、いわゆる故郷にて迎えたのだが、どうにも、身の置きどころのようなものが、こころもとない。
それはつまるところ自らに因るものなのだろうが、それは棚の上にあげておき、とりあえずの身の置きどころを探し歩いてみたのである。
駅前に向かうにあたり、ちと、ぐるりと回ってみたのである。
それはまだたしかランドセルを背中にひっかけていたころ、はじめての補修塾なるところに通っていた、京成線の駅のほうである。
水鳥公園の石碑を見かけ、懐かしさのみにあらず、なぜかここをゆかねばならぬ、と袖をひかれたのである。
かつてここを訪れて以来、干支がふた回り分くらいしてしまっていた。
きれいに整備され、ふむふむかつてのはこのあたりだったか、と池の向こうに目を見遣ると、お社に、ずらりと列。
菊田神社
であった。 今日の今まで、まったく知らなかったのである。
初詣に並ぶ、およそ百メートルの列の人々を横切り、由来だのご祭神だのをつらつらと流し読む。
うむむ。 なんというか。
よほど、縁があるようである。
オオナムチノミコト、つまり、
大国主命
とである。
有名かつ、かかすことできぬ神のひとりではあるが、振り返ると、わたしの暮らすさきざきの地で、おらなかったことなど一度もないのである。
これは谷中に帰ったら、すぐさま神田大明神に初詣にゆかねばなるまい。
身の置きどころは、やはりみつけるようなものではないのである。
つくるもの、 築くもの、 あるべくしてあるもの、
なのである。
身勝手を振る舞っているのだから、それは覚悟をしてあるはず、すべきことである。
ほかになにをや望まんや。
大事な一を望むなら、 ほかの九は望むまじ。
すべてを背負ってゆくのが夢ならば、 すべてをひきかえにするのもまた夢。
逆光を背に、いざゆかん。
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