「隙 間」

2008年11月02日(日) 黒い十字架

 わたしがふと目を覚ましたのは、頬をつめたい風が撫でていたからだった。
 ほのかな明かりが、うっすらと細くあけた目に射し込んでくる。

 シャリ、シャリ……。

 絹が擦れるような音が聞こえ、まだぼんやりとしかものをとらえることができない視界に、あるものをみた。

 背後に光を放つ、黒い十字架……。

 俺は神(キリスト)なんか、クソッくらえだっ。

 そう怒鳴りつけてやろうと、目を開けてからはじめて、しっかりとまばたたきをした。

 十字架なんかじゃあ、ない。

 黒ずくめの男が窓枠に手をかけ、外に出ようとしているところだった。

 瞬間沸き上がったままの感情は、明確な、しかしぶつけるべき対象がすり替わってしまったために、冷静さを取り戻しつつあってしまった。

 男は背を向けている。
 俺に気がついてないまま、これを乗り越えてしまえばもうだいじょうぶ、と思っている。

「ふんっ」

 布団を跳ねのけ、脇から手を入れてつかみ倒そう、と思ってしまった。

 それが、いけなかった。

「ヒッ」

 布団の音で気がつき、中途半端な勢いで、飛びかかろうとしているわたしを振り返り、男は慌てて窓を乗り越えようとする。

 わたしの手は、空を、きっていた。

 庭を突っ切り、門扉を軽々と飛び越えてゆく。

 わたしは時計を見上げた。

 午前六時五分。

 ノートパソコンは、ある。
 カバンも、ある。
 じゃあ、何が?

 パーカーを羽織り、玄関に回る。
 鍵はかかっていた。
 外に、出る。
 通りに、出る。

 朝の街は、もう、目覚めている。
 この街は古き下町、入り組んだ路地が張り巡らされている。

 どっちへ逃げるか。

 まっすぐな道は選ばないだろう。通称「へび道」のほうか。

「へび道」とは、旧藍染川をそのまま暗渠化した、まさにへびのようにうねうねと曲がりくねった路地であり、そこにまたほかの路地が方々から接続している。

 二、三歩駆け出したところで、「へび道」のほうから自転車に乗った女子高生が現れた。

「ちょっとごめん」

 わたしの急な呼び止めに、彼女は不審な顔をしつつも、止まってくれた。

「なんでしょう」
「俺くらいの背で、上下黒の服で、上着がジャージの……ウィンドブレーカーみたいにシャリシャリ言うような格好で、走ってく男と擦れ違ったりしなかった?」

 わたしはここで気がついた。

 黒の目出し帽を脱いでしまえば、早朝ウォーキングの格好とも見えるじゃないか。

「いえ、見てないですけど」

 ごめん、ありがとう。
 彼女に手を振り別れたあと、わたしは警察に連絡を入れた。

「よかったじゃないですか、無傷で」

 この時間、この状況でやる犯人は、慣れてるヤツですよ。部屋にいれば、大抵は財布がそこにあるとわかってるわけですからね。じゃ、財布以外に被害があったと気づいたら、そこの交番か、下谷警察のここに連絡ください。

 無傷のままおめおめと逃してしまったこと。
 それならいっそ、刺されても全身で向かわなかったことのほうが、悔しいですよ。

 とは言わなかった。
 やることをやったなら、諦めるなり打ちひしがれるなり、できる。

 しかしわたしは、またひとつの場面に立ち会うことができた、と思った。
そういう性分なのだろう。

 しかし、どうせ立ち会うのならもっと深く、と思ってしまうところがあるのもまた、困った性分でもあるのだが……。

 ……以上は、すべて「ノンフィクション」の出来事である。


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