わたしがふと目を覚ましたのは、頬をつめたい風が撫でていたからだった。 ほのかな明かりが、うっすらと細くあけた目に射し込んでくる。
シャリ、シャリ……。
絹が擦れるような音が聞こえ、まだぼんやりとしかものをとらえることができない視界に、あるものをみた。
背後に光を放つ、黒い十字架……。
俺は神(キリスト)なんか、クソッくらえだっ。
そう怒鳴りつけてやろうと、目を開けてからはじめて、しっかりとまばたたきをした。
十字架なんかじゃあ、ない。
黒ずくめの男が窓枠に手をかけ、外に出ようとしているところだった。
瞬間沸き上がったままの感情は、明確な、しかしぶつけるべき対象がすり替わってしまったために、冷静さを取り戻しつつあってしまった。
男は背を向けている。 俺に気がついてないまま、これを乗り越えてしまえばもうだいじょうぶ、と思っている。
「ふんっ」
布団を跳ねのけ、脇から手を入れてつかみ倒そう、と思ってしまった。
それが、いけなかった。
「ヒッ」
布団の音で気がつき、中途半端な勢いで、飛びかかろうとしているわたしを振り返り、男は慌てて窓を乗り越えようとする。
わたしの手は、空を、きっていた。
庭を突っ切り、門扉を軽々と飛び越えてゆく。
わたしは時計を見上げた。
午前六時五分。
ノートパソコンは、ある。 カバンも、ある。 じゃあ、何が?
パーカーを羽織り、玄関に回る。 鍵はかかっていた。 外に、出る。 通りに、出る。
朝の街は、もう、目覚めている。 この街は古き下町、入り組んだ路地が張り巡らされている。
どっちへ逃げるか。
まっすぐな道は選ばないだろう。通称「へび道」のほうか。
「へび道」とは、旧藍染川をそのまま暗渠化した、まさにへびのようにうねうねと曲がりくねった路地であり、そこにまたほかの路地が方々から接続している。
二、三歩駆け出したところで、「へび道」のほうから自転車に乗った女子高生が現れた。
「ちょっとごめん」
わたしの急な呼び止めに、彼女は不審な顔をしつつも、止まってくれた。
「なんでしょう」 「俺くらいの背で、上下黒の服で、上着がジャージの……ウィンドブレーカーみたいにシャリシャリ言うような格好で、走ってく男と擦れ違ったりしなかった?」
わたしはここで気がついた。
黒の目出し帽を脱いでしまえば、早朝ウォーキングの格好とも見えるじゃないか。
「いえ、見てないですけど」
ごめん、ありがとう。 彼女に手を振り別れたあと、わたしは警察に連絡を入れた。
「よかったじゃないですか、無傷で」
この時間、この状況でやる犯人は、慣れてるヤツですよ。部屋にいれば、大抵は財布がそこにあるとわかってるわけですからね。じゃ、財布以外に被害があったと気づいたら、そこの交番か、下谷警察のここに連絡ください。
無傷のままおめおめと逃してしまったこと。 それならいっそ、刺されても全身で向かわなかったことのほうが、悔しいですよ。
とは言わなかった。 やることをやったなら、諦めるなり打ちひしがれるなり、できる。
しかしわたしは、またひとつの場面に立ち会うことができた、と思った。 そういう性分なのだろう。
しかし、どうせ立ち会うのならもっと深く、と思ってしまうところがあるのもまた、困った性分でもあるのだが……。
……以上は、すべて「ノンフィクション」の出来事である。
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