★悠悠自適な日記☆
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2005年01月25日(火) ジコマン調整会議

 私の学科の専攻には、毎月3回生のチーフを中心に調整会議というものが行われる。学内、学外で公演を控えている団体の代表者は、稽古場利用のための教室、貸し出し機材の調整を行う会議である。気がつけばいつも何かしらの企画に参加している私はいつの間にかこの会議の常連になっている。

 しかし、調整会議は、会議でありながら、会議でないと、私は思う。

 会議中に煙草を吸う、会議中に携帯が鳴る、決められた枚数の企画書を刷って来ない、敬語が使えない、チーフが遅刻する、7人もチーフがいて誰も仕切れる人間がいない、チーフですら派閥、教員シンパに加担する。何も言えずナメられた担当教員、根拠なくつけあがり、偉そうなチーフ陣、ヘラヘラだらだらと進む調整会議。「お前らアホか!」と言いたくなったのを何度我慢したか。最低だ。私の相方さんはチーフで、彼には大変申し訳ないけれど、この状況を私は最低だと思っています。

 みんな会議というものを分かっていない。何が大切で、何を報告しておかなければならないのか、その事前準備ですら怠り、その場になって、戸惑っていい加減な情報を伝えたり、ぼそぼそとカツゼツ悪く自分の中だけで消化して伝えた気になっている。自己満足で終わる調整会議。「もっと大きな声で、要件を、カツゼツ良く、的確に喋れ!事前準備を怠るな!最低限のマナーを守れ!ふんぞり返るな!謙虚にいろ!」心の中ではいつもこう叫んでいる。私が進行役ならきっとまずそれを要求する。

 会議で大切な情報を伝えることができない、それですら自己満足で終わる人たちは、きっと自分の作品ですらも自己満足で終わるのだろう。だって作品に愛がないもの。見る立場の人を、聞く立場の人のことを普段から考えることのできない人には、その程度の作品しか作れない。常識のわからない人間に常識を超える作品なんて作れやしない。それでアートだ芸術だなんて知ったかぶりできてしまうのだから、鼻で笑ってしまう。うちの大学なんて、そんなもんだ。演劇人はおろか、常識人ですら育成できない。

 集まって来る人は個性的で、楽しくて、そういうのは凄く素敵だなと思うのに、いつもこの調整会議に出席すると、先輩陣の態度、性格の悪さが露呈していや〜な気持ちになる。私は何をしにこの大学にやってきたのだろう?私がここにいることに何の意味があるのだろう?そんなことを考えてしまう。

 この大学はカリキュラムがぬるい。システムが悪い。生徒達はそれを知っている。知っていて、「意味がない!」と言って投げ出す。意味がないと思うならどうして自分達の手でせめて意味のあるものにしようという努力、意識が持てないのか。中途半端に授業を消化し、中途半端な気持ちで外に出て、中途半端なくせに出来た気になっている。仕事のできない人間ばかり。チーフも、先輩も、同期の子たちも。この裕福でブルジョワな雰囲気漂う囲いの中で、みんな腐っていく。きっと、私も。

 学費を出してもらっている両親には本当に申し訳ないけれど、私はもうすでにこの大学で演劇を学ぶことはどうでもいいなと思っていて、だけど私がこの大学にいる理由として、何ができるかなと。せっかく出会った素敵な仲間が腐っていくのを見捨てたくはなくて、ついでに私も腐りたくなくて、そのためには何ができるかなと。そんなことをずっと考えている。

 演劇が出来る人とか、そんなのはもうどうでもいいから、せめて、活きた人間を。その土台作りを。そういう改革はできないのだろうか。重たい荷物をエッサエッサ運んでいる人を見て「手伝いましょうか?」の一言が言える人間、立ち止まった所に落ちていた空き缶をスッと拾ってゴミ箱に持っていける人間、それだけでいいのだ。ウチの専攻生はこれらが驚くほどできない。(現代っ子の特徴っぽいですが、社会人、演劇人、アーティストとしては通用しません。)

 そろそろ私達の回生の間でも次のチーフは誰だという話が話題になってきている。チーフポジションなんて学内での認知度を上げるものにしかならないけれど、せめて、私達の代は、生徒を人として良い方向に導いていける人間が就いてくれることを願います。真面目に謙虚に、納得のいかないものは投げ出さずに納得のいくように自分の手で変えてやるんだという意識の持てる、そういう見本になれる人になって欲しい。私達の代は現在の大学の異常に気付いている人が他の代よりも比較的多いので、その人たちがこのまま大学で腐らないように、そして私もそう促せる人でいたい。

 なんだか正義感の強い日記です。
 


嶋子 |MAILHomePage

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