★悠悠自適な日記☆
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私は「血のつながり」とか「子供は親の分身」とか、そのテの言葉が好きではない。
「あんたの低い鼻はナカシマ家(←本名)似やね〜」 「あんたのその性格、ナカシマ系やわ〜」 「ナガタ(←母方の姓)にはそんな体質の子おらんのよ〜」
私は何かとこの言葉を聞いて育ってきた。生きていれば誰もが1度、こんな言葉を耳にすると思うし、言う方も別に悪気があるのではないのだろう。
だけど、私はこの言葉が嫌い。
理由はふたつあって、ひとつは母が、父方の、つまりはナカシマの家と上手くいっていないから。その事情は私も良く知っている。そういう背景がありながら私に対してそんな発言をするということは、遠まわしに私を非難しているということ。母はきっと何も考えずに口にするのだろうけど、私にはそうにしか聞こえない。結構傷付いたりする。
そして、それよりもなによりも大きな理由は、私は「ナカシマ」という家の共同体の一部としか見られていないということ。そこには私という個人の存在よりも、「ナカシマ」の血を引く、共同体の一部としての私が優先されている。
血のつながりは多いに尊重され、私という個性は否定される。
うちのお婆ちゃん、うちのポチ、うちの妻…、「うち(家)」という言葉が家族や血縁を意味するのは日本だけで、西洋にはない捉え方らしい。個人の存在よりも共同体を大事にする、日本人独特の考え方なのだそうだ。
しかし、日本人である私、そういう考え方が大っ嫌い。
今一緒に住んでいる母、弟、単身赴任中の父、大阪に住む祖父…皆血縁で、変えようのない事実だけど、でも私は「他人」だと思っている。「自分」ではないからだ。ただ血がつながっているだけ。それだけ。この前、母と子供を産み育てることについて話をした時、「子は親の分身だから」という言葉が出た。一見子を愛する親の美しい言葉。でもここでも私という個性は無視されている。私は母ではないし、父でもない。私は父母とイコールではない。
私をこの世に産み落としてくれたことや、養ってくれていることには素直に感謝している。でもそれは「血のつながり」では説明できないと思う。私は血のつながった肉親に対してもどうしょうもない嫌悪感を抱く人も中にはいるし、血のつながらない人にだって恋をする。そうしたら、血は繋がっていなくとも、愛しいと思う気持ちが生まれるではないか!!
私は、血のつながりなんかより、その人に対して抱く愛や友情を信じたい。
そんなことを母親に話すと、「アンタは冷たい」と一言返されて、その話は終わってしまった。冷たいのはどっちよ?
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