Leonna's Anahori Journal
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2006年11月02日(木) ニワトリ

 
そして、ナカータが引退を表明したのだった。(前回、W杯のはなしから気分は引き続き、という感じで書いております)

別にショックというわけでもなく、なるほどそうきたかと納得するより他なかった。それに、プレミアへ移ってからのナカタには内心忸怩たるものがあった(これは決して私だけの思いではないだろう)。
ビッグクラブでやれなくなったナカタはみたくない、そもそも、どこでもいいからできるところでサッカーを続けるというタイプの人ではないとも思っていた。
 
普段からナカタとつきあいのあったデル・ピエロは、驚いて「やめるのは、やめろ」という電話をかけてきたという。しかし、こういう親交のある選手同士ならばまだしも、クリティカルな立場から仕事として発言する人たちの中にも「もったいない」「まだ続けられる」と発言するひとがけっこうあって、意外だった。

その、もったいない、まだ出来るという意見を見聞きして思い出したことがある。

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倉橋由美子は、かつて三島由紀夫の死を「もったいない」とする人々について、こう書いていた。
 
 
"ひとつの稀有な文才の消滅を惜しむのはよいが、生きていればまだ良い作品が書けたのにといういいかたには、金の卵を生む鶏の死を惜しむのに似たけち臭さがある。”(『毒薬としての文学』所収「英雄の死」より)
 
 
まっこと倉橋由美子らしく、痛烈というほかない。
私は、中田英寿を"英雄"だとは思わない。しかし、これまで多くのスポーツ選手の引退を耳にし、そしてお決まりの「まだできる、もったいない」発言を聞いてきたが、この鶏の話をありありと思い出したのは今回が初めてだった。

ナカタについて肯定的な発言(擁護するつもりでも何でもなく)をするたびに、何度バッシングを受けたかわからない。特に男性にナカタの話を持ち出すときは要注意で、小野、中村ならば波風立たなくても、ナカタの名前を出した途端に妙な雰囲気になる。女性の場合は、プレーの質の話をしていても、要するにナカタ=好みのタイプととられることが多かった。

しかし、それもこれもお終いだ。なぜなら私はサッカー選手をやめた、試合でボールを蹴らなくなったナカタには、興味がないからだ。
7月の引退の時点でそう思ったことはやはり間違いではなくて、その後テレビや雑誌で(もう蹴らない)ナカタを見ても、まるで食指が動かない。
 




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