Leonna's Anahori Journal
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2005年12月01日(木) |
小説と映像の追いかけっこ |
仕事のことも何とかしなければならないというので、東京方面へ出かける。 夕方、恵比寿ガーデンシネマにて「ドア・イン・ザ・フロア」を観る。今日は映画の日。アーヴィングの映画を観るのにうってつけの日。 -- 「ドア・イン・ザ・フロア」は、アーヴィングの「未亡人の一年」の前半部分の映画化で、正確には新潮文庫上巻の343頁まで、第一部〈1958年、夏〉の部分を映像化している。
「未亡人の一年」は、アーヴィングらしい大きな物語で原作は文庫版で上下巻あわせると優に1,000ページを超える。その間、物語には数十年の月日が流れて、子どもは大人に、少年は中年に、大人は老年に至る。
脚本/監督のトッド・ウィリアムズ(まだ三十代半ばだそうだ)はこの物語の前半部分を丁寧に描くというアイデアで原作者アーヴィングの全幅の信頼を得、その期待に応えてあまりある映画を作り上げた。とにかく、静かで落ち着いていて、素晴らしい映画音楽(マーセロ・ザーヴォス)と共に、胸にしっかりと染み込んでくる。
小説→脚本化の手腕は勿論だが、キャスティングがまたいい。端役に至るまで、ただの一人も間違いがない。つまり、原作の読者を裏切らない配役。実を言うと、私はこの映画を観る時点で、まだ上巻を全部読み切っておらず、映画の終盤、キム・ベイシンガーのマリアンが夫と娘を残して黙って家を出て行ったところで、映画(物語)に追いつかれてしまった。
けれども、帰りの電車では再び映画に追いつき、ついには追い越して、いつもの駅で降りる頃には、十六歳で、人妻マリアンと“六十回の夏”(詳しくは原作または映画をあたられたし)を過ごした少年エディ・オヘアは、四十八歳のあまりパッとしない作家になっていた。そして、マリアンが捨てた娘、ルースとニューヨークで再会する…
この間〜映画を観る直前まで原作を読んでいて、映像化されたものを観て、その映画の続きをまた小説で読む間〜私は“途中で実写版を観られたことの幸福”をタップリと味わった。映像が私を助け、楽しませ、その先の文章が、観た事もない映像をつれてきた。つまり、この映画はそれくらい原作に忠実に、そして原作を決して枷と感じさせない瑞々しさを保って作られているのだ。 なお、原作では夫婦(ベイシンガーとブリッジス)の亡くなった息子が履いていたスニーカーについて、バスケットシューズ(ハイトップスと呼ばれていた)と書かれているが、映画の中では“ナイキのエアマックス”と更なる具体性を与えられている。いやぁ、やるなあ、トッド・ウィリアムズ。
また、映画ならでは表現ということでは、パンフレットの中で川本三郎氏も述べている通り、幕切れで、スカッシュコートの床に作った上げ蓋式の“ドア”を開けてジェフ・ブリッジスがふっと床下へ消える、あの短いショットが素晴らしかった。 -- 「ドア・イン・ザ・フロア」、首都圏では恵比寿ガーデンシネマにて、12月9日までの上映です。お急ぎください。
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