Leonna's Anahori Journal
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2005年11月19日(土) 凡人だってシュールを生きる

  
『20世紀の芸術と生きる ペギー・グッゲンハイム自伝』が届いた。

つい先日ヴェネチアで訪れたあの家、いまも同じ場所に置かれていて、この手で触ってきたばかりの彫刻の、昔の写真がたくさん挿入されていて、感無量。

それに、ちょっと目を通しただけでも、むっちゃくちゃ面白そうな本で身震いがする。彼女自身が語る遍歴もさることながら、終章の後ろに付された『ヴェネツィア』という一文を読むと、一行一行に目玉が吸い付いてしまう。

ヴェネチアは、一度そこを訪れてしまうと、あらゆる機会を見つけ、可能な限りの口実をもうけて人はそこへ帰っていくことになるのだ、と、グッゲンハイムは書いている。魔法をかけられたようになってしまうのだ、と。

それは、よくわかる。いみじくも、ヴェネチアからドイツへ帰るその日に私は同行の友人に言ったものだ。「普通の場所なら、お名残惜しい、あと3日位いられたらねとかなんとか言うところだろうけど、ヴェネチアにはその言葉は通用しない。3日だろうと一週間だろうと同じ事だよ。キリがない。もっといたいというなら、最後は住むしかないんじゃないの」と。…ああ、ヴェネチア(チマリスッ、深呼吸、深呼吸!)

この本、新本と見紛うばかりの美本で、帯も完全。きれいにハトロン紙がかけられていた。定価8千円を1,950円で入手。みすず書房刊。
 
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ヴェネチアの町を歩き回っていて、そして、グッゲンハイムの家でマックス・エルンストの作品の前に立って、私は、

“美とは痙攣的なものであろう。さもなくば存在しないであろう”
 
という有名な言葉を思い出した。これはパティ・スミスがセカンドアルバム『ラジオエチオピア』の裏ジャケットに英語表記で引用した言葉で、元はエルンストと同じシュールリアリズムの芸術家、アンドレ・ブルトンが小説『ナジャ』の最終行に記した言葉なのだが、私はブルトンとエルンストを混同して、エルンストの絵の前で思い出してしまった(笑)。

しかしながら、ヴェネチアという町で思い出すのにこれほど相応しい言葉もないように思う。それで、同行の友人にそのことを告げたところ「ヨーロッパにはそういう言葉の下地となる美が(町の風景等となって)常に存在しているからね」と言われてしまった。まず、身辺に“美”というものが当たり前に存在しているからこそ、美とは痙攣的なものだという言葉が成り立つのだという…。

彼女のこの言葉で、十代の頃からずっと頭のどこかにあったこの言葉、どうにも上手く消化しきれなかった言葉の意味がやっと、ストンと落ち着くべきところに落ち着いたような気がした。要するに、東京にいて、頭で理解しようとすること自体が無理だったのだ。下地のないところでいきなり痙攣的な美について考えてもわかるはずがなく、また、それを想像しようとしても至難の業(東方には東方の、痺れるような美の在り方が存在するとしても)だ。

ちなみに、アンドレ・ブルトンはフランス人、わが友人は在欧17年である。
 
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それで、実に久しぶりにブルトンの『ナジャ』を開いて、訳者のひとりである栗田勇氏による「われらの内なるナジャ」という巻頭文を読んでみたのだが、これが一々良くわかるので唖然としてしまった。

パティ・スミスを入口として分不相応なヨーロッパの美学に近づいて行った十代の頃は、自分でもどこかで、こういうものは理解できなくて当たり前だと思っていたのである。自分のオツムにはちと難解過ぎるというだけではなく、シュールリアリストなんてものは、どのみち自分たちとは人種が違って少し変な人たちなんだから、とタカをくくっていたのだ。

ところで、栗田氏の一文(『ナジャ』という難解な作品に挑む前に読む解説的内容)が理解できるようになった原因は実に単純で、人生の経験値が上がったこと、というこの一言に尽きる。たとえば、
 
 
“そして、袂れが必ずくる。死がかならずおとずれるように。なぜなら愛は、たしかに、魂の事件ではあるが、と同時に、それが、不完全でもろい肉体によってはじめて成り立つこともまた事実だからである”
 
 
こういう文章を、十代後半の子どもがわかろうとしても、土台が無理な話なのだ。まず、死が必ず訪れるという事が実感できない(少なくとも私はそうだった)。また、不完全でもろい肉体というのも、言葉としてはわかるけれども、実感としては“不死身の十代”なのである。

こういうガキンチョに“愛は魂の事件”とか言っても虚しいわなぁ…。と、ま、そんなふうであったから、こういうのは典型的なキザなインテリの書く文章くらいにしか思えなかった(はずだ)。

それが、いまや。“遇うは袂れのはじめ”と、骨身に沁みてしらされている日常なのである。また、死が必ず訪れるその前兆として、シミ・シワ・たるみ・白髪に息切れが手に手をとって来訪中、なのである。こういう地味で普通の人生そのものがシュールリアリズム文学の理解に役立つなんて、今日の今日まで思ってもみなかった。

さて、栗田氏の文章が「わかる、わかるぅ〜」と驚愕したチマリスだったが、ブルトンのナジャ、本文はやはり激しく難解だった。これはやはり、ただ漫然と生きているだけでわかるようになる代物ではない。シュールリアリズム侮り難し。ちなみに件の最終行、栗田勇/峰尾雅彦供訳版では、
 
 
“美とは痙攣的なものであり、さもなくば存在すまい。”
 
 
(痙攣的なもの、の部分に傍点)、となっていた。

 
  
 
 
 


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