Leonna's Anahori Journal
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今日は用事があって洋光台の父のところへ出かけた。
電車の中では村松友視の「ヤスケンの海」を読んだり、epik highの"HIGH SOCIETY"を聴いたりしていて、そのうちに居眠りしてグラッと上体倒れそうになったところで、電車は唐突に洋光台へ着いた。
"HIGH SOCIETY"って洒落たアルバムだ。1集の"Map of Human Soul"は滅茶滅茶クールだったけれど、2集の"HIGH SOCIETY"は完璧に計算されたデザインの中で遊んでいるのだ。(歌詞の内容は非常に風刺的だそうだが) 冒頭すぐに、「これは小西康陽ではないか!」と気がつく。そうだ、ピチカートにあったなこんな感触のアルバム、なんだったっけと考えたら、それは"THE END OF THE WORLD"だった。
「ヤスケンの海」は解説が村上龍だった。いつも通り、まず最初にうしろの解説から読んでいたら、村上龍と回想の中のヤスケン(安原顕)との会話に、こんなくだりがあった。
-- “ジャズを聴くのは当たり前じゃないですか。ジャズに限らずロックでも、それを教養として聴くのではなく、異物として、クスリやセックスのように進んでからだに取り入れるのは当たり前のことだ、と私は言いたかったのだ。” この村上龍の文章は、たしか昔にも読んだことがある。一時期、けっこう色々な場所に書いていた言葉ではないか。で、昔はあまりよく意味がわからなかったのだが、今日は「うん、その通り」という感じでストンと納得した。それどころか、異物じゃなかったら取り入れる意味がない、とさえ思っているようなのだ。今の私は。
異なっているから(異物だから)、違いが感じられるのだ。この違う感じ、何が違うんだろうと無意識に考えること、これが一番面白いのだ。私にとっては。だから私は昔よく聴いた懐かしい曲というのがキライだ。それはもう消化され同化したもので、異物ではない。こういう曲にハッとするのは最初の一瞬だけで、あとは感情を弄ばれているような気分になる。これがもう、嫌で嫌でたまらない。
あと人間にとっては、音楽もセックスもセラピーという側面が強いと思うのだけれど(いやほとんど丸ごとセラピーと言ってもいいのでは?)、異物じゃあないものではセラピーの用をなさないのではないか。暇つぶしにはなっても。と、そんなことも考える。だから、音楽やセックスに異物感を求めなくなったら、それはもう老後ってことなんじゃないのか。リタイアしたあとの暇つぶし。
…しかし、なんで今日、私はこんなことを書いているのだろう?だいたい、ジャズを聴くのは当たり前云々というのは、三十年以上も昔の言葉なのだ。龍が二十歳とか、それくらいのときの言葉。なんか今日は私、馬鹿に尖ってるというか、年齢に抗っているとでもいうのか…(笑) でも本当は、この言葉に込められた意味に年齢なんか関係ないのだ。この言葉を生きると決めた人間は(そういうタイプの人間というのが存在するのです)、一生この言葉に従って行くのだろう。 (ここから、私信)
というわけで、Kさん。私には江國香織の書いた
「私は恋人以外の男性に興味はないが、恋人と生きようとすれば、閉じこめられてしまう」
という言葉は、わかる気がする。しかしそのわかる気というのは、その恋人に妻子があろうとなかろうと関係ない、という、いささか乱暴なカンジのものなのだけれど。あと、その場合には「恋人」という言葉と「夫」という言葉の入れ替えも可能ですね。
問題は恋人に妻子があるかどうかではなくて、“恋人と生きる”という言葉の具体的内容なのだろう。私は個人的には、ときめかないなぁ、この言葉(笑)。 自分自身ときちんとつきあって、自分の本心で生きるのだって大変なのに、“恋人と生きる”、って…。なんか不幸とか、大惨事のにおいがするなぁ。
おそらく“恋人と生きよう”と決めた時点で、自分で自分を閉じ込めてしまうことになるのではないのかしら。自分を閉じ込めているのは、恋人ではなくて自分自身なんだよね、きっと。
しかし、自分のココロの声に忠実に生きて、最低限の人間性を保った恋人、さらに、常にセラピーたりえるセックスを求めるとなると、そうとうタフな生き方を選択することになるなぁ。もう少し早く、体力のあるうちにこのことに気付けばよかったんだけど…
(急にしょんぼり。すでに隠居の風情濃厚)
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