Leonna's Anahori Journal
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2005年06月01日(水) |
人生を超越しているもの |
少しまえに銀座の福家書店でヘンリー・ミラー(山羊座生まれの雄!)の『南回帰線』をみつけて買った。本当は『北回帰線』をさがしていたのだけど、ヘンリー・ミラーの文庫本なんて、それが何であろうと稀少なものだからオッてな感じで、即購入。
いつもの習慣で、まずあとがき(解説)に目を通すと、ミラーは自分のことを“クリスマスに生まれるべきところ、母親の手違いで12月26日に生まれてしまった《遅れてきたキリスト》”と認識していたらしい。 このあたり、同じ山羊座生まれでも“年も押し迫った師走の、しかも給料日前に生まれてきてゴメンナサイ”という認識(12月23日生まれです)で生きてきた私とはずいぶん違うなと感心する。しかしねぇ、キリスト、ねぇ…(さすがだ)
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さてその『南回帰線』、まださわりの部分をほんの少し読んだだけなのだが、なかなか凄いことが書いてある。たとえば、以下のような部分。 『考えてみれば、ぼくはこれまで生きることに感心を抱いたことはなく、ぼくの関心はただ現在の行動に、人生にも匹敵し、人生の一部分であると同時に人生を超越しているものにしかないことを悟ったのだ。』 ヘンリー・ミラーが“人生すら超越している”とみなした“現在の行動”とは、おのれを表現すること(恐らくは、小説をものすことの意)で、もし他の人間たちのやっていることが“生きること”であるならば、自分はそんなものに関心を抱いたことはない、と言っているのだ。
しかし。ミラーのように“現在の行動”を“表現すること”と限定しなくても、すべての現在の行動は、人生にも匹敵するのみならず、人生すらも超越しているのではないだろうか。つまり、現在というこの一点を通らずして自分の人生は成立せず、人間は自分の死後を知ることはできないことになっているのだから、たったいまこの瞬間の行動(と、書いている間にも飛び去って行くこの今)のリアリティ、ヴィヴィッドさは、人生という過ぎ去った時間の集積物(完成しているけれど死んでいる)を超越しているとは言えまいか。
けれども勿論、だからこの瞬間を大切に生きなければ、とかなんとかいう話では全然ないのだ。なんというか…前述のミラーの文章を読んでから、私は“たったいま”という時間に対する感覚がにわかに変わってしまった。未来も将来もなく、いまがそれらも含めたすべての時間なのだと、極めてリアルに感じるようになった。
そして、今という時間に対する感覚が変化すると同時に、世間が規定(らしきことを)する「幸せ」とか「愛情」とかいう言葉から完全にリアリティが失われた。なんかもう、関係ないのだ。そんなリアリティのない、意味もわからず想像もつかないものを追い求めて生きることは、できない、興味がない。そもそも世間などという実態のつかめないオバケのようなものの言うことを真に受けるわけには行かない。これが私の(今まで自分でも気付かなかったが)本心だったのだろう。 --
ほんの14、5ページ読んだだけでこんなだから、最後まで読んだらどんな面白いことがあるんだろう、『南回帰線』。 でも、いまほとんどまともな読書時間がとれない状況。気長に、その一瞬を爆発させながら、ミラー本とつきあって行きます。
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