Leonna's Anahori Journal
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妹とふたりで、母の墓参り。
お墓をそうじしてお線香をあげたあと、雑木林のそばの東屋でおむすびを食べる。ものすごく暑かったけれど、東屋に入ると意外なくらい涼しい。鬱蒼とした木々が炎天をさえぎり、天然の涼風が吹き抜ける。
いやー極楽極楽、墓場で極楽、と食休みしていたら、蚊に嗅ぎつけられたらしく、あっという間に腕を三箇所くらい刺されてしまった。あわてて退散。 --
このまえ石川直樹の日記を読んだときから、ずっと考えていたこと。
彼はパレスティナでみたこと経験したことを自分のサイト(日記)に綴っていて“胸くそが悪くなった”と書いている。この言葉は言い得て妙だと思う。私は膝を打った。そうなのだ。まさに“胸くそ”の問題なのだ。 もちろん正義や人道上の問題ではあるのだが、それよりなによりまず“こんなことがガマンできるかい。無茶苦茶胸くそ悪い!”という、個人の強烈な感情(思い)がある。これが一番のきっかけ。
この胸くそを放っておいたのではキモチが悪くてかなわないので、なんとかしよう(自分なりに表現してみよう)と行動をおこす。たとえば国際法だのメディア規制だの不慣れな言葉をつかって書いてみる(説明してみる)が、なにか自分でもしっくりこない。
しっくりこないばかりか、気がつくとなにやら政治的な背景(しかも紋切り型)を背負ってありがちな人物パターンを演じている自分がおり、第三者からはしっかりと右や左にカテゴライズされていたりするわけだ。ああ、そんなつもりじゃあなかったのに。アナコンダ!
しかし。どのみちこの手の怒り、この手の胸くその悪さが勝手におさまったり良くなったりするわけもないので、これからもこの行き場のない、腐ったヘドロのような嫌な気分は腹の底に居座り続けるのだろう。
ということは、これからは気を付けなくてはいけないということだ。ありがちな言葉(例えば政治用語)のかげに自分の本当の感情、コンチキショウという胸くその悪さが隠れてしまうような書き方は極力避けなければいけない。
(常に新鮮な怒りや問いであるような、そんな書き方が出来なければ、書いても意味なんかないんだよ、きっと)
-- しかし、面白い。
いいかげん歳をとって、中年と呼んでもさしつかえのない時期にさしかかったら、急に他人がどう思おうがアタシがよけりゃあいいの、と思えるようになった。それだからか、いまの自分は十九、二十歳の頃よりよっぽど無邪気で正直だと感じる。
それと同時に、いくら興味を持っても理解できなかった戦争や紛争や国際問題も、突如、リアリティをもって目の前に立ちはだかってきた。なんだか凄くシリアスでハードな感触。勿論、無邪気な楽しさとは相容れない。しかしこれに関しては“一般常識問題”ではなくて、自分の生き方に関わる問題なのだというハッキリとした認識がある。
“大人になれば”、我が身の上にこういうアンビバレンツが起こることもあるのだと、ついこの前まで知らずにいた。そしで、知らなかったことがおこるのは、それがどんなにシンドイことであっても、やっぱりちょっと新鮮だななどと言って面白がっている。 -- ところで。“大人になれば”というのは小沢健二の曲のタイトルだ。アルバム『球体の奏でる音楽』の収録曲。
いままでわからなかったもの(こと)が何故かわかるようになったとき、アレ?これって大人になったってこと?と思う、とか、そんな内容の歌。 彼の歌によれば、大人になるとそれまで以上に感受性がとぎすまされて、世界中の美しいものがたくさん見えるようになる、らしいです。よ。
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