Leonna's Anahori Journal
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2002年08月17日(土) 昔の写真


今回、旅行の最後に母の生家へ立ち寄ったのには訳がある。
亡母の故郷である富山県某町の美術館で開かれている展覧会に、若かりし頃の母の写真がたくさん出展されているので観てみたら、と少しまえ叔父(母の弟)たちから連絡があったのだ。

その展覧会というのは1981年に亡くなったA・J氏という方の油絵と演劇活動をまとめたもので、母は一時期、このA・J氏の主宰する演劇研究会に所属し第一回公演から舞台にあがっていたのだという。

叔父達は、私が母の華やかだった青春時代を知らないと思っていたようだが実はそうではない。家には(すでにセピア色になった)写真が何枚もあるし、幼少時、母に連れられてかつての演劇仲間(東京で俳優になっている)の家を訪ねた記憶もある。A・J氏の演劇活動が単なる素人芝居、農村演劇の枠を超えた素晴らしいものであったことも、それとなく聞かされてはいた。(何しろ彼は千田是也を自宅に招いたり、河原崎長十郎と親しく話し合ったり、杉村春子を囲む座談会まで催したりしていたのだ)

このあたりのことに関しては、A・J氏が戦前、東京の松竹本社に勤務していた(一時期は助監督までつとめられた)ということを今回初めて知り、なんとなく合点がいった。その後、召集され松竹を退社。そして戦後、故郷の富山県へ戻り、地域文化の向上を目的として演劇研究会を結成、母は縁あってその研究会へ参加させてもらっていた、ということらしい。

A・J氏(亡くなられてからは夫人)からは、以前から毎年母宛に素晴らしいお年賀状(迫力ある画や版画!)を頂いていた。今回初めてそのA氏夫人にお会いしてお礼を言うことが出来た。
それから、亡母の五十年前(!)の演劇仲間の皆さんともお会いする事が出来た。母が他界したことを伝えると(殆どの方は母の死を知らず、絶句される人も多かった)貴重な思い出を話して下さる方もあった。感謝の念にたえない。

しかし。正直な気持ちを言うならば、やはりこの世は生者たちの世界なのである。死んだらソレマデ、なのだ。そうして、実際に死ぬ以前から母は昔のことは忘れて、無かったこととして(表面上は)生きていた。そして、娘である私にとっては五十年前の、お姫様役を演じる美しい母の顔よりも、病みに病み果てて棺に収まった、昔の容貌など見る影もない母の顔の方がリアルなのだ。確かに、あれは私の母の顔だった。それで良いのである。
   
    
そんな訳で母の昔の写真にはそれほど執着しなかった私なのだが、今回の展覧会の柱である、最晩年A・J氏が心血を注いだ油絵七十余点。これが、なにしろ素晴らしかったのだ。どれもモティーフは「雲」。それも夕景のものが多い。これらの絵を観た後で実際の雲を眺めると、どうしても“自然が芸術を模倣している”としか思えなくなってしまう。

A・J氏はもともと画家志望だったそうだが、とうとう最晩年になって絵画に没頭することができた。“出来た”というとまるで幸運な人みたいだけれど、それはもちろんA・J氏が自らの力でそういうふうに生きたということに他ならない。あるひとは図録に、その頃のA・J氏を回想して“絵の具を携え自転車に乗り雲を追う姿は、実に涙が出るようなシルエットであった”と書いている。

母は亡くなる数年前、まだ何とか自分の足で歩けた頃、むやみに富山県の実家へ帰りたがるので困ってしまったことがあった。それはただ、鮭が生まれた川へ帰りたがるのと同じ、ほとんど本能的な欲求だったのかもしれないが、その無意識の底にはわずかでも、若かった時代の熱気や光を求める気持ちが潜んでいたのかもしれない。

ほんとうに生きているうちにやることやっておかなかったら駄目だ、死んだらオシマイだわい。そして、記憶や写真も良いけれど、絵でも文章でも、何でもいいから何か作品として遺すことが出来ればその方がベターだな。…と、これが今回私が抱いた正直な感想なのであります。
  
 






日本海沿岸地方の夕暮れ。この日も、自然が芸術を模倣しようとしていました。
   


       


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