Leonna's Anahori Journal
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2002年07月28日(日) プリミティヴな正義感

しばらくかかって青柳恵介著『風の男 白洲次郎』という本を、少し開いてはすぐ閉じるといった調子で、のろのろと読み進めている。

この評伝によれば、白洲次郎という人(実業家。吉田茂首相の懐刀と呼ばれ終戦処理に活躍)はすぐに怒鳴る。それも地位のある責任ある立場の人間に対して怒鳴る。どんなに偉いひとに対してでも臆することなく自分の意見を言い、対立するとこれまた臆することなく自説を通そうと大きな声でやりあうのだ。

読んでいると、強いものに平気で向かっていくその姿勢の良さ、格好良さに、ほとんど打ちのめされそうになる。
それというのもこの数日、私自身も、怒り怒鳴り悪態をつきながら、なんとか自分の“正論”を通そうとやっきになっていたからで、しかもそうやってジタバタしている自分の姿がどうにも無様に思えて自己嫌悪に陥りそうになっていたからだ。

正論を通そうとする人間は、表面はともかく内実は感情的であってはならない。表面的には熱くなっているように見えても、その心眼は正論の先にあるヴィジョンを見失ってはいけないのだ。
また、いったん自分が意見を表明したならば途中で姿勢を変えるべきではない。こんなことを言ってひとからどう見られるだろう?などというケチなことを考えるくらいなら最初から意見などしなければいいのだ。こういうことは少し冷静になってみればすぐにわかる。

しかし、それはそれとして、オンナが怒るとき怒鳴るとき正論を主張するときに、いくら正しくたって“これ以上はデッドゾーン”という一線はあるだろう、と、まあそういうことも考える。
これはケチな見栄とはまた別の、いわば身だしなみの問題というものだ。
短気で怒りっぽい私の性格はおそらく“一生もの”だろうから、せめて自分なりの規範というものを持っても良いと思うのだ、もう大人なんだし。

結局のところ私は、怒りをぶつける相手に嫌われることをおそれているのではなく、自分が自分に幻滅することをおそれているのだろう。
だから一貫して“怒り姿勢”の良い白洲次郎、どんなに怒鳴っても決して振り向かない、うつむかない白洲次郎の格好良さに我と我が身を映してはうなだれてしまうのだ。


ところで、白洲次郎というのは先にも書いたとおり吉田茂首相の懐刀と呼ばれた男。第二次大戦後、ケンブリッジ仕込みの英語と世の中の三歩先を見通す眼力でGHQを向こうに回し終戦処理に活躍、日本国憲法誕生の現場にも立ち会った昭和史の重要人物なのだ。(ちなみに奥さんは文筆家の白洲正子)
だから、そもそもそういう人の短気と私の短気が同じ物であるわけがないのだけれど…(笑)。しかし、な。

“ボクは人から、アカデミックな、プリミティヴ(素朴)な正義感をふりまわされるのは困る、とよくいわれる。しかしボクにはそれが貴いものだと思っている。他の人には幼稚なのかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。ボクの幼稚な正義感にさわるものは、みんなフッとばしてしまう。”(『風の男 白洲次郎』より)

どうです?こういうことを言うひとに惚れなかったらオンナに生まれた甲斐がないじゃないか、と私は思うんだけど(笑)。
ま、こういう人間の魅力に不感症であるとしたら、オトコに生まれた甲斐も(オットコならなおのこと!)あったもんじゃないですけれどね。



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