Leonna's Anahori Journal
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2002年05月08日(水) |
ゴダール『愛の世紀』 |
ひきこもりたがる我が身を家から引き剥がすようにして、公開中のゴダールの新作『愛の世紀』を観に行った。
いやー、よかった!ゴダール。頑張って出かけた甲斐があったなー。 ゴダールというと難解というイメージがあって、だからチョット、というひともいるけれど。私の場合は逆だから。 私はワカラナイから、謎があるから、何遍も繰り返しゴダール作品を観る。『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』なんてもう二十回くらい観てる。で、観るたびに発見があって飽きるということがない。
だから、ワカラナイ=嫌いということにはならない。ことゴダールに関しては。恋愛と一緒で、謎があるからこそその吸引力も増すというものなのです(笑)。
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『愛の世紀』はゴダールのなかの“大人の時代”への渇望が生んだ映画だ。 私はこの映画をみて、トルーマン・カポーティが生前コレットと交わした会話を思い出した。(その様子はカポーティの絶筆『叶えられた祈り』のなかに描かれている)
パリのアパルトマンにコレットを訪ねたカポーティは、ベッドに横になったままの憧れの“女王”にこう訴える。
「私は自分が何を望んでいるのかわからないんです。私は自分がどうなりたいかはわかっています。つまり大人になりたいんです」
あの、或る意味、非常に悪名高いカポーティがこのような言葉を吐くこと自体に震えるような感動を抱く私なのだが、答えるコレットの言葉もさすがに含蓄モノだ。
「そんなこと誰にも出来ないことよ。大人になるなんて。あなたが考えている大人になるっていうことは、知性だけのひからびた服を着た人間になるってことなの? 羨望とか悪意とか貪欲さとか罪とか、そうした欠点をみんななくしてしまうということ? そんなこと不可能よ…(後略)…」
このコレットの返答は長く、後半部分がまたスンバラシイので興味のある人はぜひ読んでみてほしいのだが、それはともかく、彼女の結論はこうだ。 私たちは勿論、時々は大人になることもあるし、数少ない高貴な瞬間も人生のあちこちに散らばっているだろう。しかし、そうした瞬間の中で一番重要なことは死である。死が私たちを最後にはただのモノ、純粋なモノにしてくれる…
コレットのこの深い洞察とウィットに富んだ言葉(このウィットの部分は全部読まないとわからないかもしれない)はカポーティを力づけただろう。(私だって救われる思いがした)けれど、カポーティは何とかして“大人”になろうという努力を続けた、と私は思う。だって、誰だって心の平和が欲しい。ましてやカポーティのような特異な才能に恵まれた人間がそれを欲しないはずがない。だからコレットの言葉を慰めとし、励みにしながら、カポーティは書くことを通して自分なりに“もっと大人に”なろうとしていたと思うのだ。
『愛の世紀』のゴダールは私の中で、このカポーティの姿とダブる。輝かしいものであるはずの新世紀(二十一世紀)に滅びの予感をしっかりと抱きながら、そして自らもいずれは死んでいく人間とわかっていながら、歴史と現実を真正面から見据え、“大人”であろうとするゴダールは泣きたくなるくらい若々しい。 これは、この世紀に大人であろうと真摯に望む者は、まるで子供のようなかたくなさと真っ直ぐな視線をこそ持たねばならないということ、なんだろうな、きっと…
あ、そうそう。この映画のパンフレットには映画の採録シナリオがついている。それからゴダールのインタヴューと矢作俊彦(トシちゃん!)のテキストまで載っているんだよ! チマリス、狂喜乱舞 in 日比谷、でした。
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帰り道、散歩がてら銀座まで歩いて、山野楽器で TRICERATOPSの『2020』を買う。
きのうの夕方ラジオをつけたらこの新曲がかかって、絶対買おうと決めていたのだ。まったく和田唱ってのはあの若さで、どうしてこんなに上等の sentimentを持っているんだろう。
家に帰ってエンドレスでかけて、サビの“2020年の夜明けに写る 僕らどんなだろう”というところで、今日みた映画を思い出して泣いた。いーじゃないか、ゴダールとトライセラが一緒くただって!(笑)
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