Leonna's Anahori Journal
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昨日は気温があがって、26℃にもなったそうだ。 塗装工事の人がベランダへ入るため、一日中カーテンを閉めっぱなしにしていたからよくわからなかった。 今日は横浜(父のところ)へ出かけた。今日も大変、あたたかかった。
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電車の中で吉田秀和『時の流れの中で』を読んでいたら、
“On revient toujours.(人はいつも帰ってくる)”
という言葉に、胸を衝かれる思いがした。シェーンベルクの言葉だそうだ。
吉田秀和はこの言葉をおりにつけて思い出すという。たとえば、ある雑誌から1945年8月15日のことを思い出して何か書いてほしいとの注文をうけたときも、最初に口をついて出てきたのはこの言い回しだったという。
“人はいつも帰ってくる”。この言葉は「ルービンシュタイン」という文章の冒頭に出てくる。書かれたのは1965年の夏。内容はタイトル通りピアニスト、ルービンシュタインの演奏スタイルの変化変遷と、それを聴く自分自身の内面の変化等について書かれている。
“人はいつも帰ってくる”。この言葉にハッとしたのは、このところの私が、亡くなった母の言葉や行動に日々新しい意味を発見しながら、回想し続けていたせいだろう。受け取る側の心の状態、理解の度合いによって、唯一と思われているものの姿は、あらゆる形に変化する。
生きているときには気にもとめなかったことに、ささいな意味を発見するたび、母は、それまでとは少し違った姿を見せながら、私の元へ帰ってくる。
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今年の桜はかつてない早さで咲いた。桜が咲いたのをみると悲しいので、お花見を急ぐひとたちの喧噪の陰で「早く散ればいい」などと思っていた。なるほど、千年も万年も、春が来るたびに爛漫と咲き競う桜という花ほど、見る人の心を如実に映す花もないかもしれない。
ところが。今日、横浜で風に吹かれて空中をななめに流されていく桜の花びらを見ていたら、「散ればいい」ではなく、素直に「きれいだなぁ」と思っている自分がいた。あるいは私が「散ればいい」などと思ったのは、どうせ来年も再来年も桜なら咲くじゃないかという、どこか投げやりで乱暴な気持ちがあったからかもしれない。
けれど、来年の桜と今年の桜は同じではないのだ。同じとき、同じ桜でさえも、見る人の心によって、花は違って見える。そう気づいたとたんに、宙を漂っていく花びらが(私にとっての)何か特別なもののように思われた。 姿かたちを変えながら“ひとも、桜も、いつも帰ってくる”のだろう、きっと。
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