Leonna's Anahori Journal
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2002年02月19日(火) 永眠

母が永眠した。

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このところ母の具合があまり良くなく、いつもは毎週木曜日に会いに行くところ二日早めて様子を見に行き、午後四時まで母の病室にいた。点滴を打ちながら荒い息をしている母を、それでも危篤と思わなかったのは、この三年間で「もう駄目かもしれない」と言われながら回復したことが何度もあったからだろう。

おとといから何も食べずに点滴だけだった母は看護婦さんから「今晩からお粥食べてみましょうね」と声をかけられると、身を起こさんばかりにして「ハイ」と返事をした。生きたくて生きたくて必死だったのだと思う。

けれど母の唇は乾いてくっついたままになっていたし、閉じた目の周りにも乾いた目やにがついていた。とても食事のできる状態には見えない。ガーゼを濡らしてきて目の周りと唇を拭く。それから吸い飲みにぬるま湯をいっぱいに入れて口元へ持っていくと、母はほんの少しずつそれを飲んだ。

吸飲みからうまく吸うことが出来ないので、いっぱいまでお湯を入れて傾ける。傾けて口に入る分だけ飲ませて、またお湯を入れに行く。三、四回それを繰り返したあとで母は、目を開けて私の顔をじっと見た。苦しいのか眉間にかすかに皺が寄っている。そうやって二度ばかり私の顔を見つめてから、目を閉じた。疲れたのだろう、と私は思った。

いつもは「また来週来るね」と声をかけるところ、母には何も言わず、父に「あさってまた来る」と言って病室をあとにしたのが夕方の四時だった。

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夜八時過ぎ、父からの電話。母危篤の知らせだった。父もいま病院から連絡を受けたところで、これから家を出るのだという。逗子の妹からも電話があって、すぐ出かけると言う。妹のところから母のいる病院までは四、五十分。私の家からは二時間はかかる。

支度をして、電車を乗り継いで、大船駅に着いたときには11時を回っていた。のぼり京浜東北線を待つホームで義弟(妹の夫)と姪をみつける。この時間に彼らが病院に向かっているということは…。私は義弟に声をかけ「妹から何か連絡がありましたか」と訊くと、答えは「聞いてませんか?」というものだった。私が絶句していると義弟は「八時少し過ぎだったそうです」と教えてくれた。

義弟はすぐに携帯電話で病院に連絡をとってくれた。母はもう病室を出されて葬儀社の人が搬送に来ているのだという。義弟は「お姉さん、いまここにいる。あと二十分待つように言って。すぐに行くから、それくらい待つように言ってよ」と強い口調で頼んでくれた。私たちは大急ぎだった。泣くのもあとまわしにして、タクシーに飛び乗った。

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母は白布にくるまれ、ストレッチャーに載せられて病院一階の廊下にいた。ベッド数20ほどの、霊安室もない小さな病院ではどこもこんなふうなのだろうか。数時間前まで病室で息をしていた母親は白布にきっちりと包まれて、車輪のついた台に載せられたその姿は、まるで小さな白い船のようだった。

父が私を手招きして、葬儀社のひとが白布を解くと現れた母の顔はまるで眠っているようだ。こわごわ額に触れると、冷たいけれども、氷のように冷たいというわけでもない。これってもう、本当に、どうにもならないことなのだろうか。数時間前に病室を出るとき、眠っていた母の呼吸音やからだのぬくもりが生々しくよみがえってくる。

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父の住んでいる集合住宅では病院(家の外)で亡くなったひとを家へ搬入することは規則で禁止されているのだそうだ。それで、母は葬儀社の方へ安置されることになった。亡くなった母を家へ連れて帰ってあげられないことがたまらなく辛い。
「お母さん、また目を覚ますかもしれない。だからひとりで寒いところへやるのはかわいそうだ」、そう思うけれど、口に出しては言えない。搬送する間、黙って母の白布にしがみついていた。
     
深夜二時頃、妹たちは父の家からタクシーで家へ帰って行った。私は始発で帰ることにして、居間のコタツで仮眠した。


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