2009年08月20日(木) 弱い自分

最近、弱い自分が見え隠れする。
そうかくことで何とかして自分を律しようとしているのだけど……。
律しなくてもいいのかな。

今は、とにかく誰かに包んでもらいたい。
ショウロンポウ。あ、変換しないのね。

今は、子供を二人抱っこしても、ママさんを抱っこしても、包んでもらっているというよりは、包んでいる感じ。

もう、一家の主なのだし、包んであげることはあっても、包んでもらうことはない。
そんな風に思っていた。

今、包んでもらうことを欲している。
いや、全部わかってもらえるとは思っていない。
すべての困難を共有して、その上で包んでもらえるなどとは思っていない。
それは、今の現状では無理だし、それをわかってもらえる人はいない。
それが出来る人間がいるなら、すべて依存してしまうだろう。

けれど、何か他者に期待してしまうのは甘え以外の何物でもないだろう。

宗教に傾倒する人間は「あなたの苦労はすべてわかっていますよ」という教祖の言葉にほぐされる。
愛人に傾倒する人間は、心を包んでもらうのを体を包んでもらうことで錯覚する。
けれど、それを是としない自分がいる。

人生是常に戦い。

そんな風に思う毎日。
最近、よく暖かいものに包まれる夢を見る。
女性だったり、大きな毛を持つ生物だったり。

和むとかそういうものではない、大きな抱擁を心は求めているみたい。
思えば、小さいころから心は常に孤独だった。
親友がいないかといえばうそになる。
ただ、相手はおいらに本気でぶつかってくるが、おいらはというと、相手にぶつけることをためらった。不器用であれば、相手もおいらが心をぶつけていないことに気づき、そこで喧嘩するなり仲たがいするだろう。
ところが、おいらはそんなところは器用だった。
自分の心をぶつけている振りをして、相手にも同様の満足感を与えた。
そして、おいら自身も、真の心とは少し違う、対外用にデフォルメされた心を他者にぶつけることで、心を相手にぶつけていると錯覚し満足していた。

今、自分の心を整理する技術を身につけるにしたがって、どんどん自分の心の中の闇が見えてきて、自分の心の乾いた部分がむき出しになってくる。
どうすればいいのかはわかりません。
誰に包んでもらいたいのか、もわかりません。
ただ、包んでもらいたい。

そんな漠然としたキーワードが頭をよぎる。
己を含むすべての他者に対して営業モード。

それでいいのかわからないけれど、そんなすべてを律している(と錯覚している)自分が、また平常であり安心できる気もする。
心のよろいはみんな着ているはず。
それを脱げる人はおそらくいないだろう。
そう考えると、今の自分は、現状把握が出来ているだけいいのかな。
そんな気もするし。
結局よーわからん。
そして、この日記の意味もよーわからん、として締めくくるのでした(^^;


 < 過去  INDEX  未来 >
ご感想をどうぞ。




彩葉 [MAIL]

My追加