最近、弱い自分が見え隠れする。 そうかくことで何とかして自分を律しようとしているのだけど……。 律しなくてもいいのかな。
今は、とにかく誰かに包んでもらいたい。 ショウロンポウ。あ、変換しないのね。
今は、子供を二人抱っこしても、ママさんを抱っこしても、包んでもらっているというよりは、包んでいる感じ。
もう、一家の主なのだし、包んであげることはあっても、包んでもらうことはない。 そんな風に思っていた。
今、包んでもらうことを欲している。 いや、全部わかってもらえるとは思っていない。 すべての困難を共有して、その上で包んでもらえるなどとは思っていない。 それは、今の現状では無理だし、それをわかってもらえる人はいない。 それが出来る人間がいるなら、すべて依存してしまうだろう。
けれど、何か他者に期待してしまうのは甘え以外の何物でもないだろう。
宗教に傾倒する人間は「あなたの苦労はすべてわかっていますよ」という教祖の言葉にほぐされる。 愛人に傾倒する人間は、心を包んでもらうのを体を包んでもらうことで錯覚する。 けれど、それを是としない自分がいる。
人生是常に戦い。
そんな風に思う毎日。 最近、よく暖かいものに包まれる夢を見る。 女性だったり、大きな毛を持つ生物だったり。
和むとかそういうものではない、大きな抱擁を心は求めているみたい。 思えば、小さいころから心は常に孤独だった。 親友がいないかといえばうそになる。 ただ、相手はおいらに本気でぶつかってくるが、おいらはというと、相手にぶつけることをためらった。不器用であれば、相手もおいらが心をぶつけていないことに気づき、そこで喧嘩するなり仲たがいするだろう。 ところが、おいらはそんなところは器用だった。 自分の心をぶつけている振りをして、相手にも同様の満足感を与えた。 そして、おいら自身も、真の心とは少し違う、対外用にデフォルメされた心を他者にぶつけることで、心を相手にぶつけていると錯覚し満足していた。
今、自分の心を整理する技術を身につけるにしたがって、どんどん自分の心の中の闇が見えてきて、自分の心の乾いた部分がむき出しになってくる。 どうすればいいのかはわかりません。 誰に包んでもらいたいのか、もわかりません。 ただ、包んでもらいたい。
そんな漠然としたキーワードが頭をよぎる。 己を含むすべての他者に対して営業モード。
それでいいのかわからないけれど、そんなすべてを律している(と錯覚している)自分が、また平常であり安心できる気もする。 心のよろいはみんな着ているはず。 それを脱げる人はおそらくいないだろう。 そう考えると、今の自分は、現状把握が出来ているだけいいのかな。 そんな気もするし。 結局よーわからん。 そして、この日記の意味もよーわからん、として締めくくるのでした(^^;
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