| 2005年11月16日(水) |
お悔やみ欄に並ぶ名前 |
最近、新規事業(といっても少し座礁気味だが)の関係で、会社で新聞のお悔やみ欄をよく見る。 お客さんも高齢者なので、徐々にやはり亡くなって行くのだ。 良くも悪くも『なまもの』ですから。
さて、今日もいつもどおりお悔やみ欄を見てみると、顔写真が。 お悔やみ欄に顔写真が載ることは珍しくないのだが、その顔が異様に若い。 見てみると、一歳……。 なんと、ゆずっことそう変わらない……。 いったい何があったのか……。 その一方でいくらでも理由など考え付くのがまた切ない。
風邪をこじらせた。 のどに何かを詰まらせた。 タバコの吸殻を食べちゃった。 縁側からおっこった。 イスからおっこった。 もともと障害を持っていたのが悪化した。
ゆずっこはまだだけど、伝い歩きを始め、ひょっとするともうてくてく歩いているかもしれない。 そうなると危険は格段に増す。 実は、おいらを含めた全員が、その危険を自分の力、もしくは周囲の力で回避し今に至るわけだが、不幸にもそういう危険に実際に遭遇し、何かしらの被害を受けてしまう子どもがいるのも事実だ。 人はえさをくれておけば大きくなる、とは親に反発した子どもがよく口にする言葉だが、それはルーチンワーク。それ以外の不慮の事柄など想定に挙げることすら難しい。 赤ん坊もなまものだからね。
何かできるわけではないけれど、すごくいたたまれない気がした。 決して、生きることが楽しい、幸せだ、と盲目的に主張するつもりはない。 つらいこと、悲しいことだって経験することは必要だ。 でも、それすら糧になる。 それを知らずに逝くのはやはりすべてを超越して悲しいことだと思う。
生きていればいろんなことがある。本当に。 喧嘩もするし、仲たがいもする。憎しみあうこともあるだろう。 でも、それはその人間とのやはり接触の形だ。そういう形で始まった接触ですら、後にはかけがえのないものになる可能性も無きにしも非ずだ。 最初対立し、憎みあうのは、たまたまであった状況がそれだから。 けれど、憎みあい、対立していくうち、互いの信頼が生まれることだって無きにしも非ず、だ。そして、そうやって得たものは、いきなり手に入ったものよりも、時には光り輝く。 そのチャンスともなる、接触。そして、その接触をするにはやはり人と出会わないとだめ。その出会いは、やはりどんな形であれ生き続けないと。 結局、その意思は本人にゆだねられちゃうわけだけど。 その接触がないのはやはり『悲しい』。
ひょっとしたらゆずっこの同級生になったかもしれない(高校、大学、あるいは職場で)まだ面識のない彼へ、合掌……。
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