1983年04月02日(土) |
選手紹介 1983年度組 |
ちなみにJrユースでの基本布陣は、こんな感じ。
−−−−−−石川−−城内−−−−−−
−−−−森山−−−−− 杉山拓 −−−
−−−−−−深澤− 杉山浩 −−−−−
−−大石−−永田−−菊地−−古橋−−
−−−−−−−−大滝−−−−−−−−
杉山浩太・杉山拓也・菊地直哉が2年生。 永田充・古橋勇希・石川貴洋(・尾鷲優)は静岡学園、大滝与志晴・城内佑太は静岡北、大石哲也は清水工業に進んでいる。
昇格後の布陣は、こちら(高3、高2、高1)
--- 清水昇格 --- ▼浅山 郷史 1983.04.25生 [182cm/74kg] GK 「サトシ」「アサヤマ」 ヤマトFC(大和市引地台中)→清水エスパルスユース(静岡北高) 二種登録・U-18日本代表・静岡国体少年選抜(01年)
01年度ユースの不動の守護神。トップ指導陣の全会一致で、昇格が決まったという。 2年生で既に、怪我明けの3年生・鶴田(清水→甲府)からポジションをほぼ奪取。しかし、安定度が高いとは言えず、大量失点を喫することも多かった。しかし、3年生では名実共に守備陣のリーダーとして成長、静岡選抜でも、磐田ユースの浅井、静学の海野らを押し退け、正GKに君臨する。急造チームながら4試合2失点という高い安定感で、優勝に貢献し、そのままU-18日本代表候補にも選ばれた。
試合を見て、まず気づくのが積極的なコーチングであろう。特に攻守の切替時には、中盤の選手にまで細かくポジションを修正し、またユースでは最終ラインのコントロールを指揮しているのも、GKである彼であった。常に闘志を失わない「心の強さ」は、既にキャンプでもフッカコーチに賞賛されたが、集中力が高く、ミドルシュートに対する反応の良さは大きな特長。足技・スローイングともに正確で、球出しの判断が速く、自ら入団会見で「ファンの皆さんに見てもらいたい」と語っているほどである。 課題は、飛び出しの判断の遅さで、周囲を上手く動かして解決を図るが、スルーパスに対しても、クロスに対しても、本人の守備範囲は狭い。そのため混戦には弱さを見せる。黒河・山本といった代表級GKの狭間にあたり、安定した「止める」技術に加え、「確保する」技術も身につけ、対抗していきたい。 03年1月、著しい寮規定に対して数度の厳重注意にも関わらず改善が見られなかったとして解雇、現在は静岡FCに所属している。
▼深澤 良輔 1983.06.29生 [178cm/66kg] ボランチ・トップ下・左右MF 「リョウスケ」 清水FC/高部SSS(清水市高部小)→清水Jエスパルスジュニアユース(清水市第六中) →清水エスパルスユース(静岡学園高) 二種登録・静岡国体少年選抜(01年)U-17日本選抜・U-17NT・静岡国体少年選抜(00年)
顔が小さく、細身の長身で、モデルのような体型の選手。メニコンカップMVP男(エスパルス三代目)。 高部小→清水第六中は、市川や永田と同じ出身。小学生ではFWとして大石哲也と2トップを組み、よみうりランドでは優秀選手にも輝いた。Jrユースでも主将として超中学級の活躍を見せ、クラブ選手権では4連覇に失敗し、準優勝に終わったものの、冬の高円宮杯には成長した菊地・杉山ら2年生や、静学サッカー部に進んだ永田・尾鷲・古橋・石川らと共に優勝、夏の屈辱を晴らしている。 しかし、高校では伸び悩む。1年生では左MFという慣れないポジションに最後まで馴染めず、高2からは本来の中央に戻る。しかし、その年こそ隼人のキープ力とチームの破壊的な攻撃力で顕在化せずにいたが、高3の年には守備の課題を露呈、最終的には浩太に司令塔の座を譲っている。
昇格が少なかった学年で、クラブの期待を一身に背負った司令塔。視野が広く、正確なボールを蹴れるというだけではなく、味方の動きを正しく察知して、「合わせる」能力が飛び抜けている。逆サイドで走る選手に、後方から斜めに繰り出すロングフィードは、実に美しい。清水は、FKで直接狙う選手が多いが、深澤は動く味方に確実に合わせることができる。余裕のある状況では、強烈な輝きを放つ「貴族系ボランチ」。 しかし、中盤の要としては安定感の欠ける選手でもある。アウトサイドで活きなかったように、突破力に乏しいため、膠着状態を自分で決めるだけの打開力に欠ける。さらに、機動性に乏しく、判断に速さに欠けるため、プレスが厳しい相手だと長所を見せる間もなく、消極的なパス回しに終始し、試合から消えてしまうことがある。また守備も苦手にしており、当たりが弱く、体の寄せも遅い。何より性格的に大人しい部分があり、プロ選手として意識改革を望みたい。 元々、昇格決定前に新潟のセレクションを受けるなど、ボーダーラインにあった選手だが、残念ながら1年で戦力外通告を受けてしまった。今後は仁科と同じ、国士舘大学に舞台を移すことになる。
--- ▼日高 拓磨 83.04.08生 [176cm/63kg] 右MF・FW 「タクマ」 旭ヶ丘FC→(常葉橘高→明治大)、二種登録(01年)
高円杯を制しながら経営危機の影響もあり、Jrユースから昇格したのは深沢・森山だけという83年度組において、日高もまたユースからの途中参入組である。 参入1年目は殆ど試合に出られなかったが、2年目にゼムノビッチ監督に代わると右MFに転向、一気に主力に。特に右SB高木と組んだ時のサイド攻撃は迫力十分であった。最終学年時には完全に攻撃の核に。某川端氏は「得点の3割以上に絡んでいそう」と評したが、私の記録では出場試合において43%の得点に絡んでいる(ゴール・アシストのみ)。
ユースの出世頭、市川・太田・純平という右サイドの系譜に連なる選手で、日高も同様に走力と突破力を兼ねた圧倒的な破壊力を宿していた。その中で、日高の特長は得点力。元々がFWということもあってシュートの精度が高く、裏に抜け出して1対1になれば、まず外さない。さらに4月生にも関わらず、ユースに入ってからも身長が伸び、空中戦でも高い得点力を誇った。ダイレクトシュートのコントロールも特筆もので、特に逆サイドのクロスに対しファーで頭から飛び込むプレーは、ダイナミックであった。クラブ選手権5位決定戦では、決勝を控える札幌サポより「ウチのクラブに欲しい」という賛辞を頂いている。 しかし、市川のように守備でも光るような選手ではない以上、太田のクイックネス、純平のドリブル突破・ミドルシュートといった膠着状態すら打開できる圧倒的な武器がなかったのが痛かった、01年は確かに日高が攻撃の鍵を握っていたが、その日高を警戒して引いた相手を崩すことなく敗れた試合も多かった。その類い希な攻撃センスは、相手がマークを切らした時限定である。市川がアシスト王、太田が甲府で大活躍、純平もACWCでデビューした年に昇格が見送られたのは、残念ながら納得もできる決断である。
▼長沼 圭 83.06.06生 [180cm/70kg] FW 「ケイ」「ナガヌマ」 愛知FC→(静岡北高→愛知学院大)、二種登録(01年)
元読売ランドの得点王。当時から「超大型ツートップ」と名高い存在で、中学生時代も大いに活躍、愛知FCから唯一、クラブ選手権優秀選手に選ばれている。 清水への加入はユースから。1年生時は殆ど出場機会はなかったが、アルゼンチン遠征で隼人と組んでCBで登場! 恐るべきはゼムノビッチ采配だが、それ以後は完全にFWの柱に成長、サイドアタックの最後を締めるフィニッシャーとして、Jユース杯では11得点を稼いでいる。だが、3年生では純平・村松の昇格に伴うサイド攻撃の鈍化に伴い、破壊力が低下。1年生阿部の台頭を許し、長沼は最終的にフィジカルチェックで昇格を見送られた。ちなみにJユース杯では、2年間通算26得点という凄まじい記録を残している。
大柄でスピードはなく、足下も不器用だが、ゴール前では凶暴。どんなボールだろうがゴールに押し込もうという強い意志が、技術・運動能力を超えた得点力を生んでいる。「シュート打たない病」に多くが罹患する清水の中で、貴重な存在であった。一方、ポストの動きは洗練されており、中盤に戻ってクサビのパスを速い判断で、簡単かつ正確に捌いて戻る動きを修練している。 しかし、180cmという身長は大型FWの中では並みであり、特に運動能力に秀でたわけではない長沼は、水準以上のCBと対峙すると対地・対空共に抑えられる傾向があった。かといって、中盤に戻ってチャンスメイクする創造性があるわけでもない。概して周囲に活かされるFWで、局面を単独で打開する能力に欠けていた。
▼河合 真二 83.06.24生 [169cm/66kg] ボランチ・FW・CB 「カワイ」 旭ヶ丘FC→清水Y(静岡学園)
▼森山 勇希 83.07.24生 [174cm/65kg] CB・左SB・左MF 「モリ」 清水JY→清水Y(静岡南高)、二種登録(01年)
←1982年度組へ →1984年度組へ
|