独り言
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2006年12月17日(日) 『オレンジジュース』シーンA

「主人公は必ず死ぬべきだ
それが例え幼稚園児のお遊戯会だとしても
それが例え究極のラブ・オペラだとしても
主人公は必ず死ぬべきだし
その方が美しいに決まっている」


私がそう言い終えるのを待たずして女は深くうつむき、かつての様に私の価値観を計り、探り、歩み寄り、「何か一つでも共有出来る物はないだろうか?」と試みる仕草さえ見せず、映画のエンドロールが流れ切る前にこの部屋を出ていった

女がこの恋愛を締め括るにあたり最後に選んだ言葉は

「さよなら」

で、それに対して私が返した言葉は

「そうか」

だった



こうして私のたった1ヵ月にわたる13人目との同棲生活は幕を閉じた


女を見送った部屋は丁度人1人分の温もりを失い、昨夜より幾分寒々しい気もしたが、こんな出来事にはすっかり慣れてしまっている私にとっては特に取り上げるべき情景ではなく、女が残していった化粧品や下着の始末をどうするかという事よりも、さっきの女が飲んだ事により無くなってしまったオレンジジュースをこの寒空の下買いに行かなければならないという事の方が余程重大かつ大儀な問題であった



外は師走の星の下

ここは…ゴールデンウィークの散歩道といったところだろうか


寝呆け顔で「おはよう」を言った直後から、疲れた頭で「おやすみ」を言う寸前まで、四六時中タバコを吸い続ける私の乾き切った喉頭部は常に飲み物を必要としており、とりわけオレンジジュース以外を全く受け付けない私にとって、オレンジジュースが無い今のこの状況は絶対的に不利であった

しばしの葛藤はあったものの結局負けを認めざるをえず、仕方無く私は4つか5つ前の女が何かの記念日に買ってくれたと思われる黒いレザージャケットを羽織り

「どうせなら茶色をくれれば良かったのに」

と対象も定まらない難癖を付けながら、ゴールデンウィークの散歩道と師走の星の下とを隔てる薄いトタン製の扉をしぶしぶ押し開け外へ出た


歩いていると白く曇った私自身の溜息が何度も何度も顔にかかり、その度に先程出ていった女と良く似た憂欝が頭をもたげる


その憂欝は、私にとってオレンジジュースがどれほど大きな存在であるかという事を理解しようともせず、「紅茶もいいけど…今の気分はオレンジジュースかな」等という気紛れな精神論を語り、私の許可も得ずオレンジジュースを注ぎ、そして何度も何度も飲み干してしまう


憂欝はやがて怒りに変わり、怒りはやがて疲労に変わった



この時間に開いているスーパーマーケットは1つも無い

また溜息がこぼれる

この近辺にはコンビニさえも無く、一番近いものでも歩いて15分以上かかる駅前まで出なければならない


かつては目と鼻の先に1軒あったのだが、3年前そこの店に強盗が押し入り店員が殺され、店主は恐れを知り店を売りに出したが買い手はつかず、今はBMWが3台、日産とトヨタが各2台、そして「何とか工務店」と書かれた2tダンプが1台契約する駐車場になっている


平日の昼間、BMW3台がそこの場所を離れる事は滅多に無く、逆に工務店のダンプがそこの場所にとどまる事は滅多に無かった


確か3番目だったと思うが、この駐車場が出来た当初一緒に暮らしていた女に

「どっちの価値が高いと思う?」

と聞いたら、女はまるで火にくべた小石が弾け飛ぶ様な勢いで

「BMWに決まってんじゃん!!」

と言い、その後丁寧にもBMWが高級車である事や、仮に私がBMWを購入したいと考えても時給950円では一生を費やしても無理だという事を教えてくれた


その後も何人かの女に同じ質問をした事があるが…答えはどれも一緒


いつだって邪魔をするのは価値観だった


相手が同性である男であっても上手く価値観を共有する事が出来ず、学校でも社会でも孤立せざるを得なかった私が、生物学的見地から見ても全く異種である女と共有出来る価値観を持ち合わせていないのは明らかだった

そうとわかっていても私は歴とした男であり、生物学的見地から見ても対種である女を求めるのは仕方の無い事であり、厄介であると知りつつ何度も同じ様に女を求めるのである

また女にとって私の様に均整の取れていないチグハグな男は、対種である男の中でも目に止まりやすい存在らしく、大抵の女が「放っておけない」等という母性本能とやらを引き連れてやってくる



新しい女と出会う度に「この女が物言わぬ動物であればいいのに」といつも思う

私は暇さえあれば口を開き、フィールドの貴公子やドラマの女王についてまるで自分の人生の一部であるかの様に熱く語る女の口を封じる為に、戸棚の奥には常にお菓子を用意しておく

そしていよいよ耐えられない段になるとそれを引っ張り出し女の鼻先に落としてやるのだ

女がお菓子に夢中になっている隙に私はシャワールームへと逃げ込み、リビングであぐらをかく女にまつわる憂欝を必死で洗い流そうと努力する

大抵の女は日に日に延びていく私のシャワータイムに懸念を抱く事は無い


何故なら女は安心しきっているからだ

私は女と居る時間の多くを笑顔の仮面でやり過ごす

私は1日1回は必ず「愛してる」という台詞を読む

そうされた女は「愛されてる」と勘違いし、すっかり安心しきってしまう


警戒している時の女はどんな男よりも敏感だが、安心している時の女はどんな男よりも鈍感なのだ



私がシャワールームから出ると、それが例え1時間後だとしても大抵の女は最前見た時と同じ位置でお菓子を頬張り、ブラウン管と対峙している


中には「今日も長かったね」等と愛想を振りまく者もいたが、大抵の女は「私が何故皮膚がふやける程シャワーを浴びなければいけなかったのか?」という事柄に関して、原因を追求するどころか疑問さえ抱かず、着替えを用意し、ブラウン管との別れを惜しむ様にシャワールームへと消える


女が消えるとすぐに私はテレビを消し、部屋の電気も消して、カーテンによって優しくねじ曲げられた外灯が縁取る部屋の片隅で寝具に包まり、ただひたすら無心で、女が戻ってくるのを待つのである




やがて女は戻り…寝具の中へ

複雑に絡み合う足と…本能

そこに言葉は無く、私を苦しめる価値観の相違も無い

お飾りのBMWも、誤魔化したチョコレートも、嘘つきなブラウン管も、溺れかけのシャワールームも…何も無い

そこに唯一在る女の肉体の上に、私は快楽を積み上げ、それを登っていく

次第に私の肉体は浮遊し、更に、一気に高みを目指す

視界は徐々に白へ溶け込み、意識は遠ざかる

それを必死で追い掛ける最中で…私は唐突に天国と出会い…そして同時に地獄とも思える程に汚らわしい寝具の中へ舞い戻るのだ

必ずと言っていい程、確かな罪悪感を引き連れて



こんな行為が救いになるだなんて私も思ってはいない

しかしこれは如何ともし難い本能のしでかす行為であり、私に生ある限り避けては通れない、目を覆いたくなる程に確かな悪事なのである



「そう」

「私に生ある限りは」





気が付けば私はとうの昔に目的のコンビニエンスストアーを通り越し、駅前商店街の中程にある交番の前を歩いていた





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