RUNNIN' STAR
     2002年06月20日(木)

 頭上に広がった雲があまりにも重そうで、手ぶらで歩いているにもかかわらず僕はひどくのろのろとその家へ向かっていた。天気がもっと良ければよかった、そしたらもっと楽な気持ちになれたかもしれないのに。
 たとえ、これから会うひとがもう僕を見てくれなくても。抱きしめてくれなくても。

 彼女に出会ったのは三週間ほど前のことだった。それまで追いかけていた事件が一応の終決を迎えて、自分の家に帰って眠れる喜びを、僕はかみしめていた。
 空はよく晴れていて、真夜中の田舎道からはたくさんの星が見られた。一仕事終えた、という開放感と安堵に背中を押されて、家のある二つも手前の駅に僕は降り立った。
 見上げると、一面が宇宙だった。つかみとれそうなほどに近く、名前も知らない星の群れが僕を見ていた。

「キレイ」

 その時、無人だと思っていたその駅のホームに、自分以外の人間がいることに気付いた。その姿をみとめて、まず最初に訪れた感情は「驚き」だった。彼女は、正確にいえばホームにいたのではない。
 線路の上に寝転んでいたのだ。

「流れ星を見たわ、」

 独り言だったのかもしれない、今でもそう思う。けれども、彼女の次の言葉が僕の方へ向かって発せられたものであるのは確実だった。

「あなたが、願いを叶えてくれるの?」

 線路を拍子抜けした顔のままでのぞきこむ僕と。
 何も疑う余地などないのだと瞳で語る彼女と。
 それが出会いだった。


 三週間、をふりかえってみる。けれども、彼女と過ごした時間の中、間におきた細かい出来事のひとつひとつ、そのどれをとってみても、僕が彼女の願いを叶えてあげられたとは思えなかった。願いを叶える人間は、僕では役者不足だったのだ――今でもそう思う。
 確実に冬が近づいているのだろう、あたりが暗いのは雲のせいばかりではない。
 冬に生まれた彼女は、どうしても誕生日までに成就させたいの、と言っていた。
 その相手が僕でよかったのかどうか。自信を持ってこれで良かったと言い切ることはできない。けれども。
 僕は、僕だけは――少なくとも彼女が好きだった。


 彼女は二週間前に死んでいる。



 ずっと一緒にいられたら。離れることなく誰かの一部になってしまえたら。
 彼女の願いを理解することは容易ではなかった。今でもきっちり自分の中の常識と折り合いをつけることができたわけではない。加えて、僕は刑事だから。認めることはできなかった。それでも。
 その信念を曲げてしまってもかまわないくらい。
 自分が狂ってしまってもかまわないくらい。
 彼女のことを想い愛し彼女の理想を、願いを受け入れてみせようと思った。
 彼女は僕の中にいる。
 ようやく家の前へたどりついた。彼女の家はひどく静かだった。主がいないせいではない。彼女がいた時だって、この家はまったく生きている者の存在を認めてはいなかった。
 廊下を歩く。その現場は、この先につづく台所だ。
 かすかに金木犀の香りがした。空気は、肌寒いというほどではなく、でも涼しいというよりずっと冷ややかで。
 彼女の声がした。僕の中に同化した彼女が至福だと言っている。
 君が幸せなら、僕は何も言うことはない。君の流星になれたことが、僕の人生で一番の幸せだ。
 君の柔らかな腕も。かすかに笑った口元も。足も、胸も、指も瞳も。
 すべて少しずつ、僕の中にある。僕の一部になっているよ。


 意外すぎるくらいに冷静な自分に、僕は満足していた。現場を見てとりみだすようでは、彼女の望む流星にはなりきれていないということなのだから。僕は彼女の願いを、しっかり叶えられたのだろう。やっと僕は確信することができた。

 一仕事終えた、と心の中でつぶやく。安堵の笑みが口元に及ぶ。

 たとえ部分になったとしても、君の体はまだ美しい。
 生きた君の魂は、僕の中に同化され。
 自分の行く末がわからなくても、僕と君が離れることはありえないから。


 部下の一人が持ってきた凶器は大きな牛刀で。
 僕と君の同化を見守った、僕の仕事を晴ればれと証してくれるだろう。

     密集
     2002年06月30日(日)

 最後の授業が終わって部屋に帰ると、いつも玄関の真中、汚れた硬い床の上に座り込んでしまいたくなる。
 ここは汚い。柔らかなカーペットの上がいい。
 ほこりや泥が隅の方にかたまっている。掃除しなきゃ、掃除、掃除。
 蹴るように靴を脱ぎ捨てて、部屋の真中まで歩いて行けば、座れる。
 布団の上は駄目。カーペットの上がいい。
 正座の足を両側に無理に崩して上半身を前倒しに屈み込む。窮屈で息苦しい、でもそれが心地良い。
 楽になってしまいたいなら、その前に少し苦しい思いをしなきゃならない。


 しばらくしたら、体を起こす。
 縮こまった体を伸ばしてまっすぐつまさき立ちをして、そしてまた座り込む。
 心臓が口から飛び出してきそう。立ち上がっただけで動悸が激しいだなんて、まるで年寄りみたいだ。脳みその周りの血管が焼けそうだ、痛い。
 こうして毎日生きていることを確認していれば、いつかこの違和感にも慣れるのかもしれない。


 部屋の中の空気が重たい。湿ってる、じめじめしてる。
 一日一日を生の確認で刻み込んでいく。一週間は七日、一ヶ月は三十日くらい。一年は三百六十五日。季節はどうやって分けただろう。今は春、それとも初夏か。
 窓を開けようと触れた硝子はひんやりしていて、けれども冬の最中のような氷の温度ではなくて。これはイミテーションのプラスチック。
 二つある窓を開けて、換気扇も回して、空気の流れを肌で感じる。


 この匂いは去年も嗅いだ。


 草の匂いなのか水の匂いなのか、あるいはもっと別なものなのか。
 何かは分からないけれど、これは生きているものの匂い。


 密集して生きるものの匂い。夜の匂い。


 流しの片付けをした、昼のことを思い出す。排水溝の中を覗き込んだときに顔をしかめたのは、密集した水かびの群れを嫌悪してしまったから。
 そんなにしてまで生きなければならないのか、殖えていかなければならないのか。
 水に流されて散っていく様子は、まるで櫻の花のよう。


 殖えていくということ。生きていくということ。
 自分が「生きる者」として在るかぎり、それは絶対で真実なのか。
 棄ててしまったらどうなるんだろう。
 その垣根を飛び越えてしまったら、その先は何があるんだろう。
 でも、私はまだここに居る。


 夏だった。
 生きるものが周りにひしめいてひしめて、匂う。息がつまるほど。
 去年も、確かに、これは夏の匂いだった。

     ねずみの子
     2002年10月11日(金)

 そのとき弟は小学生で、わたしもまた小学生でした。
 当時通っていた小学校は隣町にあります。わたしが小学三年生のとき、両親が新居を手に入れてこの町へ引っ越して来ました。けれど、この地区の子供が通う小学校と、もとからわたしの通っていた小学校との距離はほとんど同じと役所で言われ、面倒な手続きを嫌った父はわたしに越境通学をさせていました。小学校まで、子供の足では片道一時間かかりました。歳を重ねて成長するにつれ、そう大変な道のりではなくなっていきましたが、弟が同じく越境入学すると、歩調のまったく違う小さな弟の手を引いての登校は、煩わしくてなりませんでした。
 わたしと弟は五歳違いの姉弟です。ですから、一緒にその道を歩いたのは、わたしが小学六年生、弟が小学一年生だったその一年のあいだだけでした。
 小学校へは、国道沿いの道を歩いて通っていました。沿いの道、というか、国道の両脇の狭い歩道です。国道は四車線で、そのころまでにわたしが見て覚えていた道路の中で、一番広く大きなものでした。夕方、学校から帰るときには、たくさんの車が走っていました。道が多少空いている朝の早い時間帯には、競うものも無いのに高速で駆け抜けていく薄っぺらの車をよく見ました。派手な色の車が多かった気がします。
 小学校には登校班、下校班という学年縦割の班がありました。わたしも、今の町に引っ越してくる前までは、六年生の班長と五年生の副班長に挟まれて、四年生の男の子、二年生の女の子と一緒に毎朝学校へ行くことに決まっていました。実際に班で登校した記憶はほとんどありません。わたしは寝坊が多かったし、人に合わせるのが嫌いでした。
 今住んでいる学区には、同じ小学校へ通っていた子供はいませんでした。弟が七歳になって幼稚園から小学校へ上がるまで、当然、わたしの班はわたし一人きりでした。


* * *


 わたしの生家は国道の脇にあります。国道が通っている土地は、もともとは田んぼや畑の広がる平らなところだったようです。いつ国道ができたのかは知りません。わたしが生まれるよりだいぶ前なのだと思います。
 わたしの家のすぐ前に、小さな空き地があります。国道は田んぼや畑より少し高いところを走っており、道路と田舎道の間を埋めるように、空き地が土手の形になだらかな斜面を作って続いています。国道を作ったときに土を盛ったものらしいのですが、それからは特に人の手が入るでもなく、かといって完全に自然に返ることもなく、長いこと変わらずに今に至っているようです。冬には枯れ草、春夏秋には強情そうな青草がみっしりと地面を埋め尽くし、たくさんの虫が年毎に湧き出で死んでいきます。
 春になると、子供がたまに段ボールを持ってやってきます。土手の上からそり遊びをしようとするのですが、勾配がゆるやかすぎるのか、うまくすべることができません。大人に見つかるとすぐにやめます。叱られたくないからです。その空き地は生き物のほかにごみも多く転がっており、特に割れたガラスや破けた金属の缶など、触ったら危ないと大人が考えそうなものが山ほどあります。草の上にただ腰を下ろすだけでも、虫を潰さないか、体に刺さるものはないか、よく見回さなければなりません。
 斜面の横手を、小さなトンネルが通っています。地区の小学生からは「呪いのトンネル」と呼ばれています。その暗いトンネルをくぐるときには息を止めないと呪われる、というのが、児童たちの間の常識でした。ほんの二、三十メートルほどの長さしかないものですから、焦って走らなくとも普通は余裕で通過することができます。それだけに、うっかり息をしてしまうとばかにされました。たった一学年でも、体と頭の成長に開きの出る小学校のことです。登校班の中の低学年の子供が失敗すれば、中学年の子供があげつらって笑い、高学年の班長や副班長がそれをたしなめます。けれどもその最高学年の六年生までが、トンネルを通らなければならないときには、なんでもない顔を作りつつ息をこらえて行くのでした。


* *


 弟がねずみの子を拾ってきたのは、冬休みに入る直前のことだったと思います。わたしが学校から帰ってくると、玄関先に緑色の透明プラスチックでできた植木鉢が置かれていました。脇に、まだ新しい黒のランドセルがあったので、すぐに弟のものだとわかりましたが、その弟の姿は近くには見当たりませんでした。
わたしの両親は共働きで、昼間には家は無人になります。ですから、ほかに帰る当てがあるわけでもないわたしと弟は、家の鍵をそれぞれひとつずつ与えられていました。
 弟はよく鍵をなくしていました。そして大抵の場合、鍵は弟の部屋で見つけられました。大切なものだから、なくさないようにきっちりランドセルにしまっておきなさい、父にいつもそう言い含められていましたが、大切なものだからこそ、弟はいつも手に持ちポケットに入れ、暇になると取り出して眺めたり玩んだりしていました。そのうちに、鍵は父に取り上げられて、紐でランドセルに結び付けられました。それ以来、弟は小学校を卒業するまで鍵をなくしませんでした。
 弟は小学一年生だったので、当時六年生だったわたしよりもずいぶん早くに授業を終えて帰ります。玄関の外に放り出されたランドセルともほかの荷物とも、すっかり顔なじみでした。
鍵をあけて家に入り、自分の荷物を下ろして玄関に引き返しました。弟の荷物を放っておいては、あとで母に叱られることがわかっているからです。面倒だと思いながらも、タイル張りの冷たい玄関に置いていかれた荷物をひとつひとつ拾い上げていきました。
 そのときになって、わたしはようやくその小さな動物に気がついたのです。何気なく覗き込んだ緑色の植木鉢の底に居たのは、朝顔でもヒヤシンスでもなく、三匹の、親指ほどの大きさしかないねずみでした。
 ぎょっとしました。瞬間、鉢の縁を掴んでいた指を放しそうになりましたが、すんでのところでこらえることができました。
 ねずみは、細かい手足の指をかすかに動かしていました。
 生きていました。


* * *


 わたしと弟は世間的に見れば仲の良い姉弟なのでしょう。たしかに、ここ数年はほとんど喧嘩もしていません。けれどもそれは、お互いがお互いを尊び合い、信頼しあっているゆえのものではありません。
 ただ、互いが可哀想でならないだけなのです。


* *


 国道沿いの土手のような空き地のような、あの草原で拾ったのだと、弟は言いました。段ボール滑りをしようと思って行ったら、大人が犬を連れて来ていたのだと。犬はしきりに地面を掘り返していて、その飼主らしい大人が、犬の掘り返す穴を覗き込んでいる。それに興味を持った弟が覗き込んだら、ねずみの子が三匹、穴の奥でうずくまっていた。
 弟の言葉は今ひとつ要領を得ませんでしたが、恐らくこんなところだったと思います。そんなことよりも何よりも、目の前にいる三匹の子ねずみの方が、よほどわたしの関心と興味とを惹きました。それまでに、わたしはあの子ねずみよりも小さな、生きた動物を見たことがありませんでした。
 ねずみは体中がやわらかい灰白色の毛で覆われていて、口元と目元、耳の内側と尻尾にだけ淡い紅色を持っていました。植木鉢の中に順に敷いた土とくず紙の、その上に三匹、丸まって寝ていました。ねずみの子は三匹とも生きていましたが、あまり具合がよさそうには見えませんでした。それでも、わたしは物珍しさと好奇心とに負けて、ついつい手を伸ばし掬い上げてしまいました。
 そのねずみが本当に子供だったのかどうかもわかりません。わたし自身がまだ十二歳でしたし、家には調べられるような本がひとつもありませんでした。生きているねずみを見たのも初めてでした。
 ねずみに重さはほとんど感じられませんでした。わたしの手の中に本当にねずみが居るのか居ないのか、存在を確信することができたのは、ただその体にたしかな温もりがこもっていたからです。体長は四センチばかり、体の幅も三センチあるかないか、円く、小さく、頼りないその体を覆っているのは、ただのやわらかい皮膚と毛だけなのです。その小さな体で、どうやって熱を絶えず発し続けることが出来るのか、考えても到底納得することなどできないと思いました。不思議で仕方が無く、一方で毛が太るような畏怖と感動がありました。
 わたしはどうしても、そのねずみを家で飼いたいと思いました。この子はわたしがいないと駄目なのだ、きっともう親もいない。元の巣穴に戻したところできっとすぐに死んでしまうだろう。
 三匹いたねずみのうち、体の大きな一匹がひどく弱っていました。体には目に見える傷はひとつもありませんでしたが、ほかの二匹に比べて拍動があまりにも弱く、ひどくぐったりとしていました。ねずみは三匹とも、ちゃんと自分たちの足で立ち上がることができないようでした。まだ歩くまで成長していないせいなのか、それとも体を起こすこともできないほどに駄目になっているのか、わたしには知りようもありませんでした。
 わたしは加減をしらない子供でした。それに、途方も無いほどばかでした。けれども、その死にかけのねずみの子を、どうにか生かしてやりたいと思っていました。
 ねずみの子が何で育つのか、地面の下で何を食べて生きるのか、今でもわたしは知りません。とにかく、子供は乳をもらって生きるものだと思いました。わたしは牛乳を温めて、いちばん弱っていたその大きな子に与えようとしました。最初は綿棒で、それが口に入らないとわかると、今度はちり紙のすみ角で。
 どちらにも、血と泥のようなものがつくばかりでした。
 弱りきっていたねずみの子は死にました。本当に弱っていたから死んだのか、それともわたしが無理をしたから死んだのかはわかりません。たちまちのうち、するすると熱が抜けていって、やわらかかったはずの毛皮の体の中には、骨がやたら固くごつごつして感じられました。どうしようもなく、気持ちが悪かった。わたしが殺したのでしょう、ええ恐らくそうです。


* * *


 わたしには妹がいました。弟にとっては姉になります。
わたしも弟も、あまり妹のことを口に出しません。弟は、もしかすると覚えていないのかもしれません。わたしも、鮮明な記憶としてはもう思い起こすことができません。体の大きな子でした。姉であるわたしよりも、弟よりも活発で明るく、優しい子だった気がします。
 今はもういません。死にました。不幸な事故でした。


* *


 夕方、家に帰ってきた母に、弟はねずみを見せました。母はねずみを見るなり「まあ、可愛い、」そしてすぐに「でも、元の場所に返してくるのよ」とわたしに向けて言いました。家で飼いたい、という弟のお願いは聞き入れられることはありませんでした。わたしは黙っていました。
 家は建てられて四年目に入ったころでした。真新しいとはいえませんが、多少潔癖の気がある母の手によって、ずいぶんと美しいままの状態を保っていました。そこへわざわざねずみを住まわせることなどないのです。
 弟は泣いたり怒鳴ったり、ずいぶん長い間ごねていましたが、結局は言いつけられたとおり、国道を歩いてねずみを返しに行きました。
 けれど、返す当てなどなかったでしょう。犬に掘られた元の巣穴は見つかりようもないだろうし、見つかっても使い物にはならないのではないかと思います。ねずみに親がいたとして、もうどこかへ逃げてしまったでしょう。
 家を出るときに持っていた緑色の透明プラスチックの植木鉢は、帰ってきたときにはその手の中にありませんでした。そのことを尋ねると、弟は「あげた」と一言だけ言い、それからしばらくわたしと口を利きませんでした。

 それから何日かしたあとで、弟がねずみを拾ったという、国道脇の空き地に行ってみました。
 緑色のプラスチック鉢は、すぐに見つけることが出来ました。けれども、中にねずみの子はもういませんでした。辺りには掘り返したような盛り土が数箇所あって、犬が最初に掘ったのがどの穴だったのかはわかりませんでした。トンネルのそばに、段ボールが投げ捨ててありました。しおれたヒヤシンスも見つけました。ねずみを入れる前の鉢に何が入っていたのか、それまで考えもしませんでした。無法に伸びた雑草の中の、手入れをされていたはずの花は、少し傾いで葉を垂れていました。植木いじりの好きな父のことを思いました。弟は、無造作にただただ植え替えただけなのでしょうから、根も傷んでしまっていたと思います。
 死んだねずみは、家の庭に埋めました。
 弟は、ねずみが死んでしまったことにひどくショックを受けたようでした。わたしが死んだねずみを乗せたままのてのひらを差し出すと、それをおそるおそる触りました。けれどそれだけで、すぐに生きたねずみの子の方へ駆け戻り、もうわたしとわたしの手の中のねずみを見ようとはしませんでした。
 家の庭のどこへねずみを埋めたのか、うまく思い出すことができません。ねずみの子は、生きているときも目を開けることはありませんでした。それなのに、庭の黒い土を掘って作った穴、その底に横向けで置いたときのあまりの体の小ささ、白い毛皮と白くなった手足と尾と、閉じない口の小さな歯まで、まだ覚えているのです。わたしを見られるはずもない目の、まぶたにかかった土が恐ろしくて、こちらの方も目をつぶって盛り土をしました。
 あのころからかもしれません。
 わたしはときどき、小さな生き物を殺す夢を見ます。

 家は築六年を数えました。母は仕事先で昇進し、家にいる時間が少なくなりました。休日にはほとんど寝てばかりです。母の趣味だった掃除は、今では父の仕事になりつつあります。家事がそんなに好きではない父は、ときどき母に文句を言っています。家事は共同でやろうと言ったのに。お前が忙しいのはわかるけれど。
 家は、昔ほどの美しさは保たれていません。昨年春辺りから、ときどき台所や和室でごきぶりを見るようになりました。今年小学三年生になった弟は、母や父やわたしに呼ばれるたびに飛んでいって新聞紙で叩きます。どこか楽しそうにさえ見えます。
 弟は今日もごきぶりを叩いています。


* *


 そのときの記憶はほとんどありません。何があったのか、恐らく今以上に当時のわたしには何もわかってはいなかったと思います。わたしも若かった、いえ、幼かった。今でこそこの界隈ではいちばんの年寄りになってしまいましたけれど、そのころは本当にただの小さな子供でした。無力です。長女でありながら、弟も妹も守ることが出来ませんでした。
 犬に襲われたのはあれが初めてです。この年まで生きていると、それは何度も危ない目には遭っていますけれど、あのときほど怖いと思ったことはありません。父も母も、いつのまにかいなくなっていました。そのころは、まだ目も満足に見えないような子供でしたし、家の外へ出たこともありませんでした。初めての外の世界は、とても寒かったと記憶しています。
 人間につかまった仲間のことは、家族全員が一緒に暮らしていたころからよく聞かされていました。ですから、一匹だけ取り上げられていった妹がどんな目にあったか、想像するだけで身を引きちぎられる思いです。はじめ、犬に襲われたときも、あの子がわたしと弟をかばうように前に出たから、ここに今わたしも弟も生きているのです。
 あれからずいぶんと時間が経ってしまいました。弟と二匹生き残ったあの日から、苦しみながらもなんとか生きてきました。
 生家の跡の近くに放されたのは幸いでした。死んだかと思っていた母が生きていて、わたしたちの生存を信じ探し続けていてくれたのですから。再会を果たしたときには、妹のことをなんと説明すればよいのかわからずに、ただ涙するばかりでしたけれど……。
 妹に助けられたわたしの命も、もうそう長くはないでしょう。ねずみの身でここまでの長寿を得られたこと、わたしを生かした数々の幸運を、日々感謝しております。
 わたしは今日も巣の中にいます。

 ちゅう。

     私は『風の民』です
     2002年10月20日(日)

 午後二時。場所はスーパーの店先。寒い寒い寒い。
 左手首の時計をちらっと確認して、また袖を指先まで引っ張り下げる。寒い寒い寒い。
 二、三分ほど前に暴風警報だか大雨洪水警報だか、遠くで放送されているのが聞こえてきた。
 僕はどうしてこんな所でアイス食ってんだろう。
 目の前は嵐だった。駐車場はがらがらだし、日曜日の昼下がりだっていうのに店の中にも店員しかいなかった。
 テレビを見ないっていうのは、やっぱりあまり頭のいいこととは言えないなあ。
 腹が減った。家にも何も食べるものはないから、出てきたことはまあ間違いじゃなかったとは思うけれど。安売りしてるからって勢いでアイス買ったのはどう考えても馬鹿だった。寒い。
 店の前のベンチに座って雨を眺める。いつになったら止むんだろう、というか、止むのか?
 何も十月に台風来なくたっていいのに。

 家を出たときには、まだ雨は小降りだった。ずっと楽しみにしていた本の発売日だったから、ためらわずに百九十八円の傘をつかんで駆け出した。今はもう、傘だけじゃ絶対に家まで辿り着けないし。車持ってる友達いないし。……携帯、忘れた、そういえば。
 本屋にも本、入ってなかったし。踏んだり蹴ったりだ。

 十五分経過。雨脚は弱まる気配、なし。
 アイスは食べ尽くした。ていうか寒い。
 首をすくめて、腕を組む。来るときは走ってたからなんともなかったけれど、よく考えたら、着てるのトレーナー一枚じゃないか、僕。アイスは自殺行為だった。
 腹、減った。アイスじゃ何の足しにもならん。でも、金、必要最低限しか持って来てなかったし。アイス箱買いしちゃったし。……馬鹿だな、僕。脳みそまで栄養まわってないんだろうな。そういえば朝も食ってないや。気、遠くなりそう。
 スーパーの店先で寒い寒い雨の中、アイス食いすぎで死亡なんてかっこ悪い。
 でも、まあ、仕方ないや。
 僕は観念して、ベンチの上に寝転がった。家まで戻るのは、とりあえず放棄。眠ったら駄目だ、凍死するぞ――……ほんと駄目だ、馬鹿なことしか思いつかない。

「本当、こんな馬鹿な人間見たのは初めてだわ」

 耳元で声がして、僕は飛び起きた。
 とっさには声が出なかった。目の前のものは、確かに人の形をしていた。けれども。
「……小さ……」
 彼女は、ベンチの腰かけ部分にさえ届くか届かないかの身長しかなかった。ていうかそんな人間いない。
「あんた、私が見えるの?」
 彼女の方も驚いたようだった。……じゃあ、僕には見えないと思って馬鹿だとか言ってたのか。性格悪い。いや、そうじゃなくて。
「……ふつう、見えないもんなの?」
 彼女は、ひょい、とベンチの背もたれに飛び乗った。見下ろされているのが癪にさわるらしい。
「あんた、上の次元から落っこちてきたのよね」
 やっと目の高さが合って、彼女は満足げに胸をそらす。
「住んでる次元が違うんだから、普通は見えないに決まってるでしょ、私よりでかいのにそんなことも分からないの、馬鹿ね。まあ、私も、この大風で迷子になったんだから人のこと言えないけど」
 彼女の小さな手のひらに、光の束が集まった。
「次元の狭間に入った人は、だいたい眠りゃ戻れるわ。じゃ、おやすみ」
 光はぎゅっと固まって、彼女の体にはひどく不釣合いな、冷蔵庫ほどもあるスイカバーになった。それをふりあげて、え?
「え? まさか、そんな、え――――っ!?」
 後頭部に、衝撃が。


「……痛……」
 気がつくと、ベンチの下に転がり落ちていた。雨が直で当たってくる。寒い寒い寒い。
 こんな所で寝てるから馬鹿な夢を見るんだよ僕の馬鹿。スイカバーの呪いなのかもしかして。
 ああ、本、欲しかったな。CMで見かけた主人公の女の子は可愛かった。あのOVAのノベライズだっていうからすごく楽しみにしてたのに。SFとファンタジーの区別もつかないけどさ。『風の民』ってギップルみたいな奴?
 雨は止まなかった。僕は結局、百九十八円の傘で無理して家まで帰った。その後盛大に熱を出して、『馬鹿は風邪ひかない』ってのを嘘だと知った。
 信じてたのに。やっぱ僕、馬鹿だわ。





/出題「私は『風の民』です」

     箱庭
     2002年11月12日(火)

 箱庭作りが趣味になったのは最近のことだ。
 そもそもは心理学にかぶれた大学の友人に勧められ(半ば強制されて)作ったのが初めてだった。ものすごくエキサイティングだとか、幽玄の中に自分を見失うほど奥が深いとか、そんな魅力はまったく無いけど、ひたすら地味に面白かった。もともと、こつこつと時間をかけて何かを作るのは好きなたちだ。
 集中を解いて、ふう、と一息つく。下宿の庭から見た日は、もう傾きかけている。芝生の上に土台と腰を落ち着けてから、四時間ほどは経っているだろう。立ち上がって思い切り伸びをしたら、かちこちになっていた体中の筋が嬉しそうに悲鳴をあげた。
 工作用セメントのビルは割とよく出来たかな、少し重くて安定が悪いけれど、まあ動かさなければ大丈夫だろう。水を張る前に、少し補強しておこうか。そんなことをつらつら考えながら、下宿の大家さんが三時に置いていってくれたお茶とお菓子をいただいた。濡れ縁に座って石の上に両足を投げ出す。お茶は冷め切っていたけれど、疲れて熱をもった頭にはかえって嬉しい涼やかさだった。
 ぼんやり眺めた遠くの山の縁が橙に染まりだした。本格的に日が落ちてくるまであと少しだろう。暗くなる前に完成させたいなあ、そう思って立ち上がり、濡れ縁から一歩前に出た瞬間、

 僕は箱庭の中に落ちていた。

 ふる、ふる、と頭を振ってみた。髪から雫が跳ね飛ばされて、胸から下の、途方もないかなたまでに広がる水面の上に落ちた。小さな王冠と波紋を形作る。夢じゃないのかもしれない。
 ここは僕が作っていた箱庭の――廃墟の群れのど真ん中だ。
 間違えようも無い。実際の作業に取り掛かる前に完成図を自分で描いた。あのビルは先週の休みに下宿の大家さんと一緒にセメントにまみれて作った。腰の後から背中の後を、ゆるく怖気さが駆け上った。水が冷たいせいではない。ここはどこだ。
 頭上をたくさんの紙飛行機が舞っていた。どこから飛んできたかなど考えもつかない。廃墟に舞う姿が滑稽で空々しくて、けれども体に纏わりつく温んだ水と同じくらいぼくの狂気をそそった。
 下宿から見えるはずの山は水平線のどこにも見当たらない。箱庭の世界はただただ空と水に空間を切り分けられている。水際の空が紅い、紅い、
 ぼくは焦って手を空に伸ばした。紙飛行機が舞っていた。青と橙を切り刻む鋭利な輪郭が、視界のあちこちを飛び交っている。くるくる回って視界を割き、水面に突き刺さる。水に濡れ溶け落ちそうないくつか。落ちるな、落ちないでくれ、どうか。
 逃げるように掠めてゆく飛行機のひとつにようやく手が届いて、ぼくは夢中で両手に掴みこんだ、

「と、まあそんな感じの内容だったかな」
「ちょっと。最初の方に出てきた心理学かぶれって、わたし?」
「実際、そうだろ。夢から他人の精神分析なんかして、楽しい?」
「楽しいわよ。それに、いいじゃない、夢を話したところで別に何か損するわけじゃないでしょ? 分析内容がヤバそうだったらちゃんと警告してあげるし」
「まあ、いいけどさ、……で、どうなの? 何かわかった?」
「んん、そうね、きっとその紙飛行機ってあなたの大切なものすべての象徴なんじゃない? 必死に掴もうとしてたのって、守りたかったからなんでしょ」
「そう、かもね。……なんかそれ聞いて安心したかも」
「何よ」
「実はその夢、まだ続いててさ。
 その紙飛行機、広げて中を覗いたら、

 君の名前が書いてあったんだ」

     蜚ばず鳴かず
     2002年11月30日(土)

 実家の居間に、大きな戸棚がある。小さい頃には、その棚のガラス戸の、彫り込まれた桟に足をかけてよじ登っていた。棚の上に乗って、うんと背すじと手を伸ばすと、天井ぎわの壁にかかっている烏天狗の面に手が届く。
 どうにかして、それを取ってこわしてしまおうと思っていた。

 言いつけに従わないでぐずるようなことがあると、いつも抱え上げられて天狗の面と顔を突きつけ合わされた。ほれ、天狗さまが怒ってるぞ。悪い子供は食べられてしまうぞ。
 天狗さまに手を伸ばしても、触ることはできるのにいつもどうしても壁からはがすことができなかった。怒ったように目玉をひんむいた顔が怖くて、間近に見るといつも泣き出していた。

 そんなことを思い出したのは、実家の祖母が亡くなったという報を聞いたからである。
 家を出て三年になる。自立は相変わらず出来ていない。アルバイトは続けているものの、生活はほとんど母からの仕送りで成り立っている。
 電話がかかってきたのは三日前だ。いつものように母の話は恨み言から始まって、就職はどうするとか恋人はいないのかと長々続き、最後に思い出したような口ぶりで、そう、おばあちゃんがね、と切り出した。
 そう、おばあちゃんがね、昨日、亡くなったのよ。


 自分はというと、通夜にも告別式にも帰りはしなかった。だから、今もここにいる。
 祖母の想い出と言えば、その天狗のこと、大きな体をゆすって家中を歩いていた後姿の恐ろしいほどでかい尻とか、動けなくなってもどっかり居間の安楽椅子に陣取って、昼も夜も母や父に愚痴をこぼしていたこと、安楽椅子のそばに寄ると、ゆるく反り返った硬い木の脚に、足の甲をいやというほど踏まれること、……挙げていけばきりがないことも、たった今思い出した。
 世間的に、自分は祖母想いの孫として見られていた。下校する度に一番に祖母に挨拶をした。大学に入ったとき、出たとき、報告の電話口には必ず祖母を出してもらった。自分は祖母の自慢であった。自ら動くことのできなかった祖母は、人を家に呼びつけるたび孫である自分の話ばかりを繰り返していた。実家に住んでいたころは、客のいる居間に自分も呼び出されていた。賢そうに見える笑い方は得意だった。
 家を出て、三年になる。

 一週間ほどして、実家から天狗の面が送られてきた。記憶よりも大分色褪せて、白かったひげは黄色に変わっていた。父の煙草か、母のか。
 自分は家を出てから、家の金をたよりに文を書きはじめた。大成するはずもないことを、信じるでもなく馬鹿にするでもなく、ただ続けている。
 祖母にしてみれば、作家など、優秀な自分の血を受けた孫の進むはずのない職であっただろう。
 わかっていて、それの為めに、自分は今、ここに居る。

 面を手にとり、漆の塗られていない裏面を撫でる。からからに乾燥していた。
 縁に指をはわせ、力を込めると、面はあっけなく割れた。

 ひいちゃん、と呼ぶ声が、どんな調子だったか、もう思い出すことはない。

     Butterfly's Head
     2002年12月05日(木)

「あたしのことが、好き?」
 ベッドにうつぶせに寝転がったまま、僕に向かって彼女は尋ねる。
 シーツを手繰り寄せるように十字に組んだ腕に顎を乗せ、少女のように訊くその唇は、地平線の際に浮かぶ出始めの月のよう。おぞましいくらい不純で、紅い。
「好きだよ」
 もう何度となくくり返された問いと答え。ぼんやりと涙を見つめる。
 長いまつげが思わせぶりに伏せられ、また持ち上がる。ついさっきの皮膚感覚が甦った。軽い瞬きと頬に触れたまつげの先。触れている唇とは別のところで起きる接触に、胸がざわめいた。

 蝶が止まって僕を離れる。



   Butterfly's Head


 唇の裏側を噛む癖がある。
 一度気になりだしたら止まらない他人の噂みたいに、唇のささくれが僕の神経に触ってくる。

 淡く滲み香る朱(あか)。
 けれどもそれは涙(るい)の唇の紅に容易く打ち消え、肌にわずかに残滓を残すのみ。
 涙の手首と、耳の裏側、
 傷口のさまよった首筋、胸元、
 僕の血のあしあとが、せめて君の纏う唯一の香りであるように。



 クロゼットの中を覗き込む涙の背中を、今度は僕がベッドの上で眺めている。
 彼女がしたようにうつぶせに転がり、シーツを両腕の下にたくし込んで見つめてみる、けれども涙は僕を見ない。
 今僕が声をかけたところで、その言葉は涙に届くのだろうか、

「ねえ、緑(みどり)、ちょっと見てくれない?」

 ベッドの横には作り付けのガラステーブル、乗せられているのは小さな陶器のスタンドと煙草。
 部屋の中にはクィーンサイズのベッドと大きなクロゼット、それから大きめのシャンパングラス。
 今は涙の手の中に、そしていつもはテーブルの上に。
 たまに思い出したように帰って寝る、衣装を取り出すために寄って来る、そんなときにしか主を内に認めないこの部屋に、唯一置かれた食器のようなもの。
 大抵空のまま部屋のどこかに忘れられたように置き去られているその薄い硝子の代物は、ときに円い淵から溢れさせるようにして花を湛える。

 涙が、愛の言葉と賛辞とともに手にし受け入れてくるもの。

 部屋に入れば涙はたちどころに花を根元から摘み取り水を張ったグラスに押し込む。
 そしてその花びらの中水の中、ためらいも無く煙草の灰を落とすのだ。どうせすぐに枯れるもの。
 翌日には窓の外を流れる川に浮かんでいるたくさんの花びら。


「服をね、新調したの」

 上機嫌のときの笑顔で振り向いた涙の手には、一枚の薄布のドレス。
 夕焼け空の薄暗い蒼を集めたような紺。光の加減で緑の彩りを帯びる。
 息が詰まりそうに密度の高い藍。


                    足をつけた床の冷たさが僕の血の熱さを証していた、



「ね、綺麗でしょ?」

 ふたたびクロゼットと向き合う涙の背後から、腕をまわして涙の腰をかき寄せる。涙は特に動揺も見せず、僕を振り返りもしないままくすくすと笑う。
 夕闇の中を泳ぐようにドレスを纏って歩く涙を想像しただけで、体中の血管が焼き切れそうになる。
 涙は涙だけのものであって、僕を含めた誰か他の人間のものではありえない、

 そんなこと知ってる。


 とん、と軽く体重を預けてくる涙の首筋に、後ろから顔を埋めてみる。
 体温を感じる距離で見つめても、涙の肌には傷も痕も無い。ついさっきまで、僕が確かに触れていたことを証明するものは無い、何も、何も。
 流しつけていた髪が落ちて、くすぐったそうに涙が笑った。
 唇の触れた細い鎖骨からかすかにさびた匂いを感じて、突然に安心しそうになった自分をいぶかしむ。

 涙が泳いでいくのは男達の間。
 何処にも、誰にもとらわれずに歩く涙の足元に、幾筋も落ち行くものは男達の血と精気。
 涙に食べこぼされて泣く一群、ひそやかにため息をついて牽制しあうたくさんの群れ。

 高座で輝く女神のような歌姫。
 涙。

 独占できているなどと、幻想を抱くにもほどがある。



 体を離す。
 テーブルの上に置かれた煙草を拾い上げ、銘柄も検めず口元に運んだ。

 手の中から解放したのは僕の方であるのに、涙はふふと笑うだけで常に僕の上に立ってしまう。
 するりと身をかわして、逃げたのは自分の方だとでも言いたげに。


                        火をともした煙草から慣れぬ舌ざわりの香りがして、



「それね、このあいだ横浜に行ったときに見つけたのよ」

 舌に残るものはだるく甘くはしたないくらいの身持ちの悪さ、海に流されても染まらぬ涙とは程遠く、けれどもどこかに共通性を感じて嫌な気がした。
 パッケージを今更ながらにしげしげと眺める。

  ”ecstacy”

「合法ドラッグ?」

「喫煙ハーブよ」

 箱の表面には緑の蝶。




「似てるね」




 するり


 白い背中が闇の中に呑まれた。

 振り返り、何も知らない生娘のように首を傾げてみせる、その微笑が憎くて。
 憎くて、引き裂いてしまいたくて、ねじ伏せてやりたくて、
 いっそ。


 いとおしくて。




「ねえ、知ってる?」

 何を言葉にしたところで伝えられるわけもないのだから。




「衣装を新調したいとき、蝶の頭を噛み切ると望みが叶うってジンクス」




「はじめて聞くわ」



 きらきら、ひらひら、
 ただ舞うだけ、
 緑の闇を翅(はね)に代え、
 気まぐれに止まる花を選んで。

 いっそ花蕾の中に閉じ込めてしまおうか?


 するり、
 壁にもたれて座り込んだ僕の、投げ出した両足の間に、蝶が舞い込んだ。

「あたしのことが好き?」

 間近で目を合わせた一瞬、挑発の色が瞳の上を流れて揺れた。
 移ろいやすい恋人をここから逃さないための方法を考えあぐねている。
 鎖などこの体のどこに繋ぎ得るだろう。


 唇から取り上げられた煙草がグラスの中の花びらに押し付けられる様を幻視した。
 共有する甘さとだるさに眩暈を起こすのはきっと、独りだけ。
 瞼を閉じた一方で、唇に触れた涙が微笑う、漏れた声に血の匂いを想う。

 まつげが頬に触れる。
 翅のはためきが闇の向こうに見えた。

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