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りょうちんのひとりごと
りょうちん
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2015年01月30日(金)
Vol.825 はじめてのスキー

おはようございます。りょうちんです。

俺がはじめてスキーをしたのは、確か16歳の冬。千葉では雪なんてめったに降らないから、俺みたいに高校生になってもスキー未経験者が断然多かった。しかしおりしもその頃まさにバブル全盛期。『私をスキーに連れてって』という映画も流行ったくらい、スキーブームが到来したのだ。
最初はそれほどスキーに興味がなかった俺だったのだが。「ゲレンデを滑り降りるスピード感が爽快でたまらない」とか、「ちょっと練習すれば誰でも簡単に滑れるようになるよ」とか、「転んでも雪の上だから痛くないしね」とか。スキー経験済みの友達が口をそろえて言うのを聞いて、それなら俺もとスキーデビューを果たす計画が進められた。
生まれてはじめてのスキーは、確かにそれなりに楽しかった。よたよたのボーゲンしか習得できなかったけど、なんとか滑れるようになったし。友達の言うとおり、滑り降りるスピード感は気持ち良くて激しく転んでもたいして痛くないし。だが正直な気持ち、これくらい楽しいことってスキー以外にもいろいろあるよなぁ、というのがいちばんの感想だった。それにいくらバブル期とはいえ、貧乏学生だった俺はスキーにかかる費用が結構かさむことに驚いていた。ウエアや手袋や防水ソックスなどの購入代、スキー場までの夜行バス代と宿泊費、リフト券代とスキー板のレンタル代、それに割高に設定されたスキー場での飲食費などなど。ざっと合計すると数万円になる。高校生の俺には、かなり気合の入った出費だったのだ。
それからもスキーブームに乗って俺も何度かスキーをする機会はあったのだが。俺の中ではそれほどスキー熱も上がらず、友達がスキーをするかたわらで俺は温泉巡りをしたりしていた。最後にスキーをしたのはもう20年近く前のことになる。今ではいろんな意味でとても手軽にスキーができるようになったと聞いた。かと言ってスキーがしたいと相変わらずあんまり思わないが、よたよたのボーゲンで構わないから今でも俺はちゃんと滑れるのかどうか、ちょっと心配ではある。



2014年12月30日(火)
Vol.824 母の視力

おはようございます。りょうちんです。

母が白内障の手術を受けた。もともと近視だった母だがここ1〜2年で急激に視力が落ち、白内障と診断されたのだ。母いわく、白内障なんて年を重ねれば誰でもかかる病気らしい。だから技術の進歩した今や白内障の手術はけして大げさなものじゃなく、母は一応大事をとって数日間入院をしたのだが、手術室に入ってからわずか1時間足らずで無事に病室に戻ってきた。
目が見えないというのは、やはり不自由なことだと思う。レストランのメニュー表に顔をぴったりくっつけて見ていたり、TVに映るゆるキャラを天気予報の晴れマークとまちがえたり、そんな母を見て俺も父も弟もみんなで大爆笑していたのだが。母にしてみれば全然笑える話ではない。ましてや手足に障害を持つ母だ。だが0.1未満だった母の視力は、手術により退院時には0.6にまで復活した。今年の2月に連れて行った沖縄のマリンブルーの海の色も実はあんまりよく見えてなかったんだよとこぼす母に、もっと早く手術をしておけば良かったと後悔が募る。
視力が回復したことで、看護師さんの顔もきちんと判別できるようになったし、好きなTVドラマも楽しめると母は喜んでいた。母のリクエストで退院後に俺の休みを使って養老渓谷に紅葉狩りに出かけたのだが、紅葉のシーズンはすでにほとんど終わりを迎えていたけれど、きれいに色づいた葉の一枚一枚までが鮮明に見えると感動していた。
ところが。良く見えるというのは、今まで見えなかったものや見えなくてもいいものまでが見えてくるということでもある。茶渋などの汚れが付着した食器類。くたびれ果てた愛用のサンダル。自分の想像以上にひどかった手や腕の肌荒れ。見えなかった頃にはまったく気づかなかったさまざまなものが、気になって仕方がないのだという。新しいカップとサンダルくらいならまだいいが、超高級な化粧水やら保湿液やらを買い込むのはちょっと痛い。資金の出どころは、俺の財布なのだから。



2014年11月28日(金)
Vol.823 戦没者慰霊式典

おはようございます。りょうちんです。

俺のルーツを探るシリーズ・その7。
今年も俺は戦没者慰霊式典に参加してきた。なぜこの季節なのかはわからないが、11月半ばになると毎年、市が開催する戦没者慰霊式典が市内のホールで開かれる。
俺の祖父の弟にあたる人が、日本から遥か離れた南の島で戦死している。ハルマヘラ島。インドネシアに属する赤道直下のこの島で、祖父の弟は太平洋戦争の犠牲となり文字通り帰らぬ人となった。敗戦後の混乱の中、遺品として届いた小さな箱の中には、島の白い砂と小石のような小さな骨が収められていたという。激しい爆撃に打たれ命を落としたのか、物資が届かなくなった戦場で餓死してしまったのか、マラリアなどの風土病が蔓延して病に倒れたのか。死因すらもはや明らかにできないが。辿り着いた島はけして楽園などではなく、地獄以上にひどい場所だったに違いない。悲惨な戦場を想像するだけで、胸が痛くなる。
父が祖父から聞いた話では、二十歳そこそこで戦地に赴くことになった祖父の弟は、幼少時代は近所でも有名なガキ大将だったそうだ。腕っぷしが強く親分肌で、年少者への面倒見が良かったらしい。俺が幼かった頃、出兵時に撮ったであろう写真が祖父の遺影の隣に飾ってあったのだが、その姿がとても凛々しかったのを覚えている。彼なら絶対に生きて帰ってくると誰もが思っていたのだが、命はあっけなく奪われてしまった。
戦後70年近くが経つ今、式典に参列している人はほとんどがかなりの高齢者で、おそらくは戦没者の子ども世代なのかもしれない。見回しても、俺らが最年少だろう。長い長い黙祷が終わると、市長などお偉方の平和の誓いが読み上げられ、献花がおこなわれる。祭壇に白い菊の花を手向け、手を合わせた。70年前に南の島で亡くなった出会えなかったおじいちゃんを思い、祈る。参加するといただける饅頭と助六寿司は、そんなおじいちゃんからのプレゼントだ。



2014年10月31日(金)
Vol.822 本を読む

おはようございます。りょうちんです。

1週間に1冊の割合で読書をすると、1年間では50冊以上の本を読むことができる。昔から俺は、本は嫌いではなかった。忙しさにかまけて読書からほとんど遠ざかっていた時期も俺にはあったのだが、ここ数年はかなり本を読んでいる方だと思う。去年は年間28冊の本を読んだ俺だったので、今年は50冊を目標にと年の初めに目標を掲げたのだが。去年よりはハイペースで読書ができているものの、今年も残り2か月となった今、読み終えた本の数はまだ31冊でちょっと目標には届かない気がする。
もちろん、本は早く読めばいいというわけではない。どれだけじっくりと内容を理解し心に響いたかがもっとも大切なポイントなので、実は数年前から読書メモをつけ始めた。読書メモと言っても、トイレにあるカレンダーの片隅に読み終えた本のタイトルと作者名をメモしておく程度のものなのだが。そんな小さな覚え書きでもあとから見返すと、あの本はこんな内容だったとかこの本には深く感銘を受けたとか、いろいろと思い出すことができる。読書メモを充実させたくて、さらにこの夏からは読んだ本の情報を記録し管理してくれるウェブサイトに俺の読書記録を依存するようになった。ちょっとした感想も残せるし同じ本を読んだ人の情報も共有できたりするので、これもこれでなかなかおもしろいのだ。
いろんなジャンルの本を読むようにしたいと思うのだが、どうしても9割以上が好きな小説に偏ってしまう。最近話題の映画や今流行っているドラマにはまったく興味がないくせに、その話の結末を小説で読んで知ることも俺には結構ある。何冊もの小説を読んでいると、久しぶりに自分でも小説を書いてみたいと最近は思うようになった。
仕事中のわずかな休憩時間、眠りにつく前のほんの数分間、信号が青に変わるまでの一瞬。俺の読書タイムは長い時間かけることはほとんどない。それでも1行でも文字を読み進められれば、そこにはまだ知らない新しい世界が描かれている。今週は読書週間。秋の夜長に、本を読もう。



2014年09月29日(月)
Vol.821 20年の時を経て

おはようございます。りょうちんです。

「10年ひとむかし」という。10年も時がたてば時代は変わって、いろんなものが変化してしまう期間なのだろう。だからその10年の2倍、20年も時が過ぎると、街も人もすっかり変わってしまうのは言うまでもない。
20年程前、当時大学生だった俺は埼玉県北部の地方都市でひとり暮らしをしていた。学校までは原付で5分で行けたし、俺みたいにひとり暮らしをしている友達も近所にたくさん住んでいたし、スーパーやコンビニにもよく顔を出していて、たった2年間しか住んでいなかったけれど俺はあの街のことは良く知っていたはずだった。
今年の夏、久しぶりにあの街を訪れた。いや、車でなら数時間で行ける距離にあるあの街にはこれまで何度も訪れていたのだが。久しぶりにあの街の、当時俺がよく出没していた場所に行ってみたいと思ったのだ。学校がすっかりおしゃれできれいになったことはウワサで聞いていたので、まだそんなにびっくりはしなかった。だが、当時俺が住んでいたアパートに行くと、そこは建てられたばかりのオープンハウスになっていて本当に驚いた。表にいたスタッフに聞くと、前に建っていたアパートは今年に入ってすぐに取り壊しが始まったんだと言う。確かにショックではあるが、20年もたてば取り壊されても仕方ない話だ。
さて、あの頃俺は家庭教師のアルバイトをしていた。週に2回、教え子の家に通い勉強を教えていたのだが。あれほど通った教え子の家までの道のりがすっかりわからなくなってしまっていた。新しくできた道が昔の面影を失わせ新しい住宅も激増した。そんな街の変貌に反比例するように、俺の記憶は時間とともにどんどん曖昧になっていく。今となっては住所の詳細をなくしてしまったことが本当に悔やまれるのだが。たしかこのあたりだったはずと目星をつけた場所をしらみつぶしに歩き回ってみたが、とうとう教え子の家は見つけられないままだった。
俺のよく知っていたあの街は、20年の時を経てすっかり変わり俺の知らない街になった。自分では気がついていないけれど、もしかしたら俺自身も20年の時を経てすっかり変わってしまったのかもしれない。20年という時間は、それだけ長いものなのだ。



2014年08月31日(日)
Vol.820 人生の分岐点

おはようございます。りょうちんです。

順風満帆で穏やかな人生はそれはそれですばらしいけれど、ちょっとくらい波乱に満ちた山あり谷ありの人生の方が楽しいに違いない。結構タイミングって意外に大事だから、船が来たならば次の船を待たずにすぐに乗り込むのもありだと思う。自分の生き方に悩んだり人生の岐路に立たされた友人に何かアドバイスをする時、今までの俺はそう助言してきた。
ここ数年、俺にとっては本当に穏やかで比較的平和な日々が続いてきた。小さな悩みや困りごとは繰り返しやってくるけれど、それはごはんを食べてたっぷり眠れば忘れてしまえるくらいのもので。忙しい毎日ではあるけれど、振り返って考えたら幸せだなぁと感じられることがたくさんあって。だから、波乱や激動と呼べる事件からは長い間遠ざかっていたからこそ、気持ちのどこかでこんな平和な毎日は永遠に続かないと身構えていた部分も俺には確かにあった。
人生の分岐点となる年が、誰でも一生のうちに何度かあるのだとしたら。俺にとって、もしかしたら今年がその人生の分岐点になるのかもしれない。今年の春、俺の人生を乗せた船は俺の意志とは無関係に激流の波に飲み込まれた。そしてどこへ向かうのかすらわからないまま、行先不明の状態で夏を迎えた。しかし、この出来事を俺は悪いアクシデントとして受け止めたのではなく、むしろ今までの平穏な毎日とサヨナラできる絶好のチャンスだと考えたのだ。見通しの立たない将来への不安は確かに存在したが、そんなことに絶望を感じたわけではなく。それ以上にこれからやってくるだろう新しい世界への期待感が、はるかに大きく上回った。俺の人生はこれからどんなふうに転がっていくんだろうと考えたら、もう胸がわくわくしてどうしようもなかった。ある意味、こんなふうに人生の分岐点が自分の身にやってくることを、密かにどこかで待ち望んでいたのかもしれない。
8月も終わりが近づき、俺を襲った激しい荒波もだいぶ穏やかになった。俺の人生を乗せた船も、結局は落ち着くところに落ち着くんだなぁと思える場所に辿り着いた。依然として航路は不安定な状態ではあるが、俺の未来は希望を乗せてまだまだ遠くへと続いてゆく。



2014年07月30日(水)
Vol.819 堪忍袋の緒が切れた

おはようございます。りょうちんです。

実家を離れ、この部屋でひとり暮らしを始めたのが2000年7月。それから5年後に相方がやってきて、2005年5月からは一緒に住むようになった。考えてみたら、賃貸契約を結びここで生活し始めて15年目に入る。ふたり分の荷物も増えてやや手狭ではあるが、不満もなく愛着も沸いて当分ここからは離れたくない。
さて。去年の秋に、一方的に部屋の管理会社が変わった。それにともない大屋さんも変わったので、家賃の振込先も駅前の大手の不動産仲介業者に変更になった。今後何かある時は仲介業者に連絡すれば良いし、とても便利になった、はずだった。
しかしこの仲介業者、全国展開している大規模な大手企業のくせに、まったくまともな仕事をしてくれない。契約更新の書類が契約満期になる日付のわずか6日前に送られてきたと思ったら、それは不備だらけの書類で。送付が遅れた理由を担当者に聞けば、明らかにウソとわかる苦しい言い訳をして。責任者に代わっても、100%の不手際を認めているにもかかわらず謝罪の意思はまったく見えず。更新の手続きを進めたくても、話は平行線のまま進展できず。手続きが遅れているのは全部仲介業者の不手際のせいだということは、大家さんには隠したままで。ひとつやふたつの不手際や不備やミスなんてものじゃなく、数えられない数の失態と何ひとつまともにできない仕事っぷりに、さすがに俺も堪忍袋の緒が切れた。「〜できる」とか「敏腕な」と和訳できる単語が社名じゃなかったか、お前のところは!
最終的には俺と仲介業者と大家さんの3者で話し合いをすることになり、謝罪する必要のない大家さんがひどく恐縮する姿に免じて、更新手数料は支払わないという条件で何とか手続きを完了することができた。忙しい仕事の合間を縫って各所に電話をしたり、仲介業者の事務所に4回も足を運んだりと、今月はほぼこの一件に労力を費やし精神的にへとへとだ。おりしも高校野球は選手権の地方予選が真っ盛りだというのに、まったく気が気じゃなかった。不動産トラブルはこじれるとやっかいだと聞くけれど、でもこれで当分は安住の場所が確保できたわけだ。一件落着。



2014年06月29日(日)
Vol.818 質量保存の法則

おはようございます。りょうちんです。

質量保存の法則とは。化学反応の際、反応する物質と生成する物質はまったく異なる物質であっても全質量は等しく、反応の前後で物質の全質量は変わらないという法則。中学の時に習ったけど、スチールウールを燃やして鉄と酸素を結合させて酸化鉄を作る実験だったっけ? もうすっかり忘れちゃったな。
さて。我が家の家庭菜園が今年もすこぶる絶好調だ。青じそはすでに食べ切れないほど繁殖しているし、かぼちゃも日に日につるが伸びて毎日大きな黄色い花を咲かせている。プランターでの栽培なのに、土の中で育つ玉ねぎやじゃがいもが小さいながらも収穫できた時は本当に驚いた。芽が出てからまだ数年しかたっていない柿や夏みかんやアボカドはさすがにまだ実がなるほどではないが、去年よりは確実に大きく成長している。我が家では収穫したものはそのまますぐに食卓に並ぶため、収穫のよろこびが食べる楽しみへと直結している。
とはいえ、忙しい毎日の中で家庭菜園ばかり気にかけてはいられない。米の研ぎ汁と野菜くずは土に返すようにしているが、本当は丹精込めていろんな野菜や果実を栽培したいのに、草むしりすらろくにできないでいるのが現状である。だが、結構ほったらかしの放任主義でも案外すくすく育ってくれるので、俺としては手もかからずうれしい限りである。いや、もっとぶっちゃけて言うと、青じそもキャベツも去年栽培していたものが勝手に花を咲かせて種を落としたものだし、ピーマンもかぼちゃも料理した食材から出た種を放っておいたら芽が出てきたものだし、玉ねぎやじゃがいもに至っては埋めておいた野菜くずが勝手に自生して実がなったものだと思われるのだ。
土に返した米の研ぎ汁と野菜くずが、時間をかけて変化し再び食べ物となって食卓を潤してくれている。今まで当たり前だと思っていたことだが、良く考えると植物って本当に不思議だ。土に返した分だけ食べることができるのならば、これこそまさに質量保存の法則なのかもしれない。我ながら、究極のエコだと思う。



2014年05月31日(土)
Vol.817 借りもののカラダ

おはようございます。りょうちんです。

最近ずっと考えているのだが、いまだに頭の中できちんと整理できていないことを今回は記したいと思う。伝えたいことが上手に表現できない部分も多々あるが、ここに記すことで少しでも俺の考えていることがまとまれば良いと願いつつ。
人の身体は、家電や自動車に似ている。この突拍子もない例えが適切なのか自信はないが、何かに例えるなら家電や自動車が最もわかりやすいものだと思う。家電や自動車には寿命があって、どんなに大切に使ってもいつかは壊れて使えなくなる。酷使したり乱暴に扱えば寿命は短くなるし、メンテナンスをして丁寧に使えば長期間の使用も可能だ。人の身体も同じで、無理や無茶が祟れば長寿は見込めないし、具合が悪くなっても的確に処置するほど長生きできる可能性が増す。また、背が高いとか声がきれいだとか視力が悪いとか色黒だとか人における身体的特徴は、家電でいうならスタイリッシュなデザインだとか水濡れに弱いとか、自動車でいうならスピードが出るとか燃費が悪いとか、そういう部分に繋がってくると思う。
ただひとつ違うのは、家電や自動車は自分の気に入ったものを吟味した上で購入することができるが、身体は好きなものを選ぶことができず生まれた時に与えられたものを一生使っていかなくてはならない。だからこそ、ずっと使ってきた自分の身体ゆえに、カラダは自分のものだと錯覚してしまうのだろう。いわばカラダは、生まれた時からやがていつか動かなくなるまで使うことを許された借りものなのだ。人の本質的な部分は魂だか心だかわからないが別のところにあって、それが単純にカラダを使いこなしているだけなのだ。そう考えると、身体が衰えていくこともいつか死を迎えることも、別に怖いものではないと思えてくるから不思議である。
こんなことを書くと、怪しい宗教に影響されたかとでも思われてしまうかもしれないが、けしてそうではない。自分の身体とは何か哲学的に考えていたら、こんなふうに整理するのが俺にとって最も楽な考え方だっただけだ。愛すべき借りもののカラダを、俺はこれからも大切に使って生きていこうと思う。



2014年04月24日(木)
Vol.816 初めての友達

おはようございます。りょうちんです。

俺がちびっこだった頃、おそらく2歳くらいの俺の写真には、たいがい薄汚れたぬいぐるみが一緒に写っている。クマなのかパンダなのか今ではもうよくわからないが、目は黒いボタンでできていてまん丸な赤い鼻が縫いつけてあり、大きな顔で二頭身のごわごわしたタオル地のぬいぐるみを、俺はいつだって肌身離さず抱えていた。名前はコロちゃん。風呂に入る時以外は眠る時も遊びに行く時も常に俺とコロちゃんは一緒で、旅行先でもコロちゃんを抱いて写っている写真が何枚もある。
コロちゃんがいないと俺は不機嫌だったし、そんな時に誰かがコロちゃんを連れてくればそれだけで気持ちが落ち着いた。一度母が汚れたコロちゃんを俺の知らない間に洗ってくれたことがあったのだが、コロちゃんがいないとぐずる俺は陰干ししてあるコロちゃんを見つけ、濡れているコロちゃんを抱いて離さなくなってしまった。そんな昔話を、今でも母は時々語る。俺の中でコロちゃんの記憶はもうかすかにしか残ってないが、コロちゃんは俺にとって初めての友達だったんだと思う。
3歳になってすぐ、俺は保育園へと預けられた。保育園にコロちゃんは連れて行けない。「コロちゃんをだっこしている赤ちゃんは保育園に入れてくれないよ!」とか、「保育園にはコロちゃんよりもっと楽しいお友達がいっぱいいるよ!」とか、そんなコトバでたしなめられて渋々コロちゃんを置いて保育園に通うことになった俺だが、やっぱりひとりぼっちになる不安の方が最初は大きかった気がする。それでもすぐに保育園になじんだ俺は、いつのまにかコロちゃんの存在も忘れ、まもなくコロちゃんに卒業することができたのだ。
姪の初めての誕生日に、パンダのぬいぐるみをプレゼントした。ごわごわしたコロちゃんとは違って、素材もふわふわで触り心地も気持ち良い。彼女にとっての初めての友達になってくれたらなんて都合の良いことを望んでいたのだが、1歳になったばかりなのになんとこの4月から保育園に通うそうだ。まだつかまり立ちしかできないというのに。がんばれ、おじさんは応援しているぞ。